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嘘の素肌「第21話」

 ホテルへ着いてから、僕は近隣のコンビニで買ったウイスキーをひたすら痛飲し、何度も吐いて、便所を吐瀉物臭くするだけの時間だけを過ごした。麻奈美さんはそんな僕の醜態を止めるつもりはさらさらないみたいで、僕が便器に顔を突っ込んでいれば背中を摩り、ベッドに寝転がるときはいつものように膝を貸してくれた。

「何があったのか、訊いたりしないんですか」

 僕の問いに、麻奈美さんはペットボトルのミネラルウォーターを一口飲んでから返した。「話したいなら話してちょうだい。でも、無理に話す必要はないわ」彼女はホテルに来てからアルコールを一切摂取していなかった。

 酔いで回る視界。昂揚した気分に反し、性欲はちっとも湧かない。一度麻奈美さんの身体から距離を取り、ソファに腰を下ろして煙草を手に取った。ジッポライターのオイルが切れており、フリントの擦れる音ばかりで上手く着火しない。テーブルに供えられたホテルの百円ライターを使おうと手を伸ばした刹那、麻奈美さんが枕元に置いていたヴィトンのバッグからターボライターを取り出し、僕に向かって下から投げた。放物線を描いたライターをキャッチし首を傾げると、「私、桧山くんと会うときはいつもライター持参してたのよ」と、非喫煙者らしからぬ発言をされた。

「さすがとしか言いようがないですね」

「モチよ」

 淑やかに口角を上げる麻奈美さんをみて、彼女になら話したいと思えた。麻奈美さんは僕の過去を知っているわけだし、あまつさえ晴天の日に呼び出したのだから、緊急性を要する訳ぐらいは話さないと不義理すぎる気もした。僕は断片的な記憶を何とか繋ぎ合わせ、これまでの事を形式的に話した。途中、僕の方で上手く言葉がまとまらず言い竦む場面があると、麻奈美さんは急かすわけでもなく、ただ物悲しい表情で僕を視ていた。



「——情けない話ですよ。僕は梢江と出逢って、彼女の希望になりたかった。彼女のリスカ痕を発見した時、彼女の声で自殺企図の経験があると打ち明けられた時、僕は梢江と母を重ねたんです。三年前、母の遺書には『茉莉を産まなければ私の人生は大丈夫だった・・・・・・。私が愛したのは結局、茂人さんの遺伝子だった。茉莉は愛情の副産物ではなく、副作用・・・だったのかもしれない。』と書いてありました。僕は悔しかった。どれだけ過去に酷いことをしても、今際で僕を肯定してくれたら、僕の存在のおかげでここまで生きて来れたと一語でも遺書に差し込んでくれたなら、僕はそれで母を赦せたし、ここまで執着もしなかった。救えなかった。二十四年かけても、たったひとり、自分の一番身近な女性さえ救えなかったから、梢江に光りを視ました。いや、視ようとしたんです。僕の全てをかけて梢江を死の魅力から救うことで、僕は僕のこれまでを、否定せずに生きていけるんじゃないかって。でも、そうやって光りの世界に連れ出そうとすることが彼女を苦しめていた。彼女の全てを否定する行為だった。だって梢江が憧れた世界は光りの届かない、深海だったから。結局、彼女が最後まで愛していたのは、深海で静かに溺れていく和弥の方だったんです。僕のことも本当に愛していると梢江は言ってくれたけど、和弥が死んで、僕らに優劣がついて、彼女が選んだのは和弥でした。僕を選んでいたなら、一人にしてほしいなんて言わないはずだから。確かに和弥は魅力的な男です。僕なんかより、ずっと。でも、考えてしまうんです。例えば僕が和弥のように希死念慮を抱えていて、死のうとする側の人間だったら、梢江の最愛になれたのかなって。生きようとする、光りの世界に向かおうとする僕じゃなければ、梢江は僕だけを愛せたのかなって。ねえ麻奈美さん。僕はね、愛する人と、信じ続けてきた人、その二人から実は仲間外れにされてたんですよ。僕の未来だけが大丈夫だと、僕の事だけが心配だと、僕の命だけが生きるべきだと、優しく爪弾きにされた。この際、あの莫迦な二人が僕を巻き込んで、三人で死にたいって笑い合えたらどれだけよかったか。何が一番寂しいかって、そこですよ。どうで僕は、世界が違う。理解しようと努めても、わからないものはわからないままで、疎外感と羞恥だけが僕を攫うんです。この経験に覚えがあった。昔、和弥と瑠菜と三人で、公園で遊んでた時のことです。僕と和弥が中学生で、瑠菜が小学校高学年くらいだったかな。その時、瑠菜が転んで怪我をして、和弥がすぐに駆け寄って手当てをしました。僕は出遅れて、棒立ちで、瑠菜へかける言葉を必死に探して、無痛無汗症の瑠菜に対し焦った僕は「痛いところあったら言ってね」って言ったんです。あの瞬間の、和弥の睨み据える瞳と、瑠菜の笑い声。僕は生涯忘れない恥をかいた。今回の一件は、それによく似ていた。何もわからないくせに口出すなって、部外者扱いされているみたいだった。麻奈美さん。和弥の死を、僕はどうこじつけたらいいんですかね。ずっと考えてました。親友を自死で喪った悲劇の男として生きたら、彼の死を、その尊厳を否定しかねない。じゃあ深く思案せず、楽に乗り越えて、これまで以上に明るく生きたら、それこそ僕は莫迦みたいじゃないですか。自殺って、どう解釈すれば正解なんですか。正しいんですか。間違ってるんですか。ふざけんなって言うべきなんですか。頑張ったなって声をかけてやるべきなんですか。僕の心は、あと何をすれば素直に壊れてくれるんですか」


「もうとっくに壊れてるわよ」

 麻奈美さんに手招きをされ、僕はベッドへ身体を向かわせる。

 彼女が正面から僕を抱きしめ、指の隙間で髪を梳かすように後頭部を撫でた。

「結局私は、不倫止まりね」

 麻奈美さんが腰の位置をずらした。シーツに擦れる衣類の音。僕の頭部へ仄かに伝わる、麻奈美さんの冷たい指先。

「君を知って、いつか壊れる人だと思って、少し離れた場所から観察しようと決めた。それでもし、私と関係が途絶えていない状況下でこの人が壊れたら、私が何とかしてあげようって。でも、傲慢過ぎたと今は反省してる。私なんかじゃ、君を救えない」

「決めつけですよ」

「事実よ。だって私は、桧山くんのお母様でも、最愛と呼べる女性でもない。欲張っていることは承知よ。それでも私は、年甲斐もなく君の中で何か大きな人になりたかった。負の遺産でも構わないから、この際、君を壊す役目が私であればどれだけ嬉しかったか。ただ残念ながら、私の知らない環境で君は壊れてしまった。寂しいの。すごく。でも、そんなものよね。私達がどれだけ美化しても、この関係は世間様からすればただの不倫なのよ。私が君との間にある引力を過信し過ぎていたのね。ごめんなさい。だからといって、このまま何もなく、君を放っておこうとも思わないの。いっそ私、君の斥力になってみようかなって。それなら誰にも真似されないでしょう?」

「斥力?」

「そうよ。桧山茉莉の人生において、せめて最も嫌われた女として、私が残り続けてくれたら嬉しい」

 その言葉を皮切りに麻奈美さんは自ら全裸になって、眼鏡を外し、結わいていた髪を忙しなく解いた。愛撫も程々に、フェラチオによって強引に勃起させられたペニスを、麻奈美さんは生の状態で膣へと押し込んだ。僕らが不貞行為に及び始めて一年半。麻奈美さんは立場を弁え、如何なるシーンでもコンドームの装着を僕へ義務付けていたし、射精の際は必ず膣内ではなく外へ出すことを徹底するよう言い聞かせてきた。そんな彼女が今、どうしてか生での挿入をすすんで行った。性衝動ではないとわかった。あまりに理性的で、打算に満ちた、愚かな女としての欲求が見え隠れした。僕はもう、どうでもよかった。そうだ。この人と会いたい時は、きまって無になりたい時だった。僕の上に跨っていた麻奈美さんと上下を反転し、正常位の貌になって目を閉じる。僕は無を考える。無理解。無秩序。無意味。無法。これまでにはないほど締まりの良い麻奈美さんのヴァギナに、僕の下腹部は求心される。無利益。無駄。無垢。無慈悲。「ねえ、中でイって欲しい」無関心。無実。無香料。無期懲役。「本気で言ってんのか」無を集めながら、ひたすらに腰を振る。無感動。無惨。無意識。無節操。「欲しいの、欲しい、桧山くん、お願い、証をください、お願い」無神経。無気力。無責任。無計画。「私のこと、嫌い?」無鉄砲。無恥。無差別。無邪気。「大嫌いだよ」僕は麻奈美さんの望み通り、膣内に射精した。



 いつものように麻奈美さんから握らされた三万円。もう和弥がいない世界で、どう使っていいのかわからないその金を、僕はジャケットの胸ポケットに裸のまま仕舞った。朝を迎える前に麻奈美さんとは別れた。深夜三時、彼女は世田谷からタクシーで帰宅し、僕は当てもなくただ日の出にかけて街を彷徨いながら、麻奈美さんの言葉を繰り返していた。

「私達はルールを破ってしまったから、こうして会うのは今夜でお終い。まあ、ルール違反をしたからっていうのは、正直なところ言い訳だけどね。実は、今旦那がアメリカの方で仕事をしていて、そこで仲良くなった知人の紹介でね、悠太の植物状態から復活した症例がある大学病院への紹介状を貰えることになったの。あの人は貿易商だから、私や正輝の気持ちさえよければ、一緒にこっちで暮らして、悠太にもう一度希望を託さないかって。少し前まで腐ってた男の言葉とは思えなかったけど、まだ、悠太を諦めてなかったことは素直に嬉しかったの。私達家族、もしかしたらやり直せるかなって。だから会社にはもう伝えてあったんだけど、明々後日には日本を発つわ。急な報告でごめんなさい。寂しくなるから、出発の前々日くらいに私から誘ってみようと考えていたけど、良い機会ね。いつかお別れが来ると準備していたから覚悟はしていたけど、今の桧山くんをひとりにするのはすごく不安。だから、会社を辞めた私はもう君の上司ではなくなるけれど、不倫相手でもなくなるから、これからは連絡、返すようにするわ。でも、私がいなくても、大丈夫なようになって。もう。そんな子犬みたいな表情しないで。私みたいな陰険なおばさんより、君にはまだ、大切にすべき人がいるはずよ。大切な親友くんの自殺によって、君とはまた別の、もしかしたら君よりも大きな悲しみを受けた子が、桧山くんのすぐそばにいるんだから。家族になってあげられなかった私だけれど、その妹さんは、君の家族になってくれるかもしれないわ。ねえ、桧山くん。目を逸らさないであげて」


 僕は和弥の葬儀が終わるまで仕事を休むことにした。

 朝八時、会社に連絡を入れた後、立川へ足を延ばした。駅構内にあるグランデュオの営業開始時刻まで立ち往生し、十時、開店直後のジュエリーショップを訪ねた。三万円で買える指輪をくださいと頼んで、右手の中指に嵌るサイズのものを用意してもらった。現金で会計を済ませ、ショップを出てすぐ指輪を嵌めて、箱や紙袋はホームのゴミ箱に捨てた。中央線から八王子乗り換えで橋本に着いて、外に出て、太陽の光に指輪を照らしてみる。シルバーリングはきらきらと反射し、光りを以て僕の中指を力強く絞めつけている。くだらねえ、クソ。独り言ちた後、僕はほくそ笑みながら麻奈美さんの連絡先を消した。




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