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意志薄弱人間のインターネット観

●寝る前にふとスマホをいじり始めて気がつくと3時間くらい平気でたっている

●別に見たくもない動画やツイートを見続けていて疲弊するのにやめられない

●疲れてTwitterを閉じた次の瞬間にTwitterを開いている

スマホ依存症あるある、
そして私の日常である。

なんでこんなに無駄なスマホいじりをやめられないんだろう、と
かつて考えたとき出した答えは
「インターネットをしていると寂しくないから」
だった。

顔も知らない人たちの部屋に次々お邪魔していく感覚。
人の思考や言葉の断片、あるいは創作物を見せてもらいにフラフラ出向いて、
この人とは気が合いそうだなぁ、
また来よう…と無言フォロー。

手土産不要、挨拶不要、気に入らなければすぐに立ち去ればいい、他に行けばほら、
インターネットにはいつも誰かしらいる。


きのう考えを改めた。

私が訪れているのではなく、
招いているのだ。

スマホのホームボタンは私の脳の玄関扉である。

開けた途端に他人がなだれこんでくる。
ある人は漫画を見せ、
ある人は歌を歌い、踊り、
誰かが何かに激しく怒り、
その怒りの発言をめぐって関係のない人たちが乱闘し、
誰かが磔にされ槍で刺されている。
諌める人が遠くから呼びかけている。
誰かがとても有益なことを言っている。
あるいは全然有益じゃないけど笑えることを言っている。

私はそれを部屋の片隅で眺めている。
賑やかで見ていて退屈しない。そこにいるだけでなんだか楽しい。
スマホをさわれば私の部屋はパーティ会場である。

スマホを伏せると皆家に帰ってしまう。
友達が帰った後の部屋はガランとして静かで、寂しいものだ。
SNSはそういう寂しさをつれてくる。
だから毎晩毎晩、体に悪いと分かっていても、
明日の大事な予定に障るとわかっていても、
脳内の静けさに耐えられずにスマホをいじって有象無象を招き入れているのだ。

問題は、スマホを伏せて、一見誰もいなくなったように見える部屋においても、
パーティの痕跡だけはしっかりと蓄積されていくということだ。

誰かの吐いたゲロの跡や、持ち込まれたガラクタ、こぼしたワインのシミ、乱闘で傷ついた壁、公開処刑で誰かが流した血など、それはもともと私のものではなかったのに、いつのまにか部屋に刻まれている。染み込んでいる。
かと思えば珠のような言葉が転がっている。
面白い本も漫画も天井まで積み上がっている。
まさしく玉石混交、連日連夜のパーティで部屋はめちゃくちゃだ。

SNSを長時間するようになってから私の言葉遣いは明らかに汚くなった。
もともと持っていなかった価値観で人や自分を測るようになった。
リアルの生活で「あれは〇〇だってどこかで聞いたな…どこかな…ああネットで誰かが言ってたな…」などと考える。
ネットの知らない人が教えてくれた真偽不明の情報が脳の中で渦を巻いている。自覚しないうちに。

むろんそれらは私にフィットするから部屋に刻まれるに至ったのである。
受け入れる素地があるということだ。
そもそも私が毎晩ぜひ来てくれと招き入れている。寂しいので。そしてパーティは寂しくないので。

だが思ったより深く侵食されている。
部屋はどこからがガラクタでどこからが宝物かもうわからない。
これは部屋の柱か?それとも誰かが置いてった腐った杭だろうか。

私のやるべきことは
パーティ終了後の寂しさに耐えること、
それができないなら招き入れる相手をちゃんと選別することだ。

アルコールにせよタバコにせよ薬にせよ
一度依存したものはなかなか断てないように、私は
知らない人たちの無責任で邪で善でハチャメチャな無限の喧騒にどっぷりと依存していて
断ちきるのは困難だろうが、

これ以上部屋を荒らされていたら
そのうち身を滅ぼすという確信があるので
なんとか、
このパーティをやめたいと思っている。

サーフィンなんて格好いいものじゃない。
お宅訪問などというとまるきり自分の意志で動けているみたいじゃないか。
深淵を覗くとき、深淵もまた…
というかの有名な言葉のとおり、
有象無象を外から眺めて楽しんでいるつもりでいても
いつまにか有象無象に頭からのみこまれてその当事者になっていて抜け出そうにも抜けられないというものだ。

テレビに対して
大宅壮一が一億総白痴化と言ったのを鑑みると
情報に対する人間の態度というのは
そうバリエーションはないのだろう。

自覚ないうちに白痴となるか
(元々にせよ後天的にせよ)意志を強く持ち距離をとるかの2択で
あとはその間のグラデーションの問題にすぎない。

私が昭和の時代に生まれていたら
朝から晩で見たくもない番組をとりあえず流して見ていたのかしら。
スマホはチャンネルが無限に増えたテレビ、
という側面は
きっと誰かしら既に言ってるだろう。


予備試験短答式を昨日終えて、
昨年の不合格時の決意も虚しく
暇さえあればスマホをいじり
ろくに勉強してこなかった
愚かな自分、
こんなときでさえインターネットに精神の安定を求めるカスな自分への戒めとして
書いておく

スマホvs意志激弱な自分
という勝ち目のなさそうな戦いにおいて
光っている言葉は
伊藤塾塾長の
「やればできる やれば必ずできる」
である。
これはインターネットで手に入れた言葉ではない。一問一答を買ったら栞に書いてあったのだ。良い言葉だ。

とにかくできるまでやるのだ。
やればできるんだから。
何度でもさよならの挨拶をしよう。
さようならインターネットよ。
もうパーティは終わりだ。

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