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サイダーのように言葉が湧き上がる —ことばの復権

作品前半部を見ていたときは「この作品の着地点はどこにあるんだ?」と思っていましたが、エンドロールに差し掛かるにつれて「あ、なるほどそういうことか」と思ったのが率直な感想です。
今回は少し短めかもしれません。

感性の言語化

発信ツールは時代を越境し、融合する

インターネット全盛時代における、ことばの存在意義
まとめ


・感性の言語化
本作の主人公は男子高校生のチェリーである。チェリーは俳句創作を得意としており、文学少年と呼ぶに相応しい存在であろう。その反面自ら発言することに苦慮している様子が描写されている。
「サイダーのように言葉が湧き上がる」というタイトルテクストは、チェリーが日々行っている感性の言語化を表象している。
その際に用いられるツールが、まさに俳句である。俳句創作にあたっては季語を包含する必要がある。チェリーもその点には忠実である。以下は筆者が映画を鑑賞した印象から論ずることである。

チェリーは自身の気持ちを詠むことはもちろん、周囲の情景を内面化することによって情景に趣を配する句を詠むことも多い。それは「やまざくら」や「歯」の着想に表象されるだろう。
公式サイトにおける登場人物紹介でチェリーは「俳句で気持ちを詠むのは得意」と記されている。
だが、チェリーは自身の気持ち・周囲の情景・季語を掛け合わせて句を詠むことによって、感性が露出すると同時に言語化されていると思う。

俳句と聞くと松尾芭蕉や井原西鶴といった江戸時代の文学者を想像する人も多いだろう。江戸時代に俳諧師として名を馳せた井原西鶴は、一昼夜または1日で独吟で句を創作できるか競争する「矢数俳諧」にて約2万3000もの句を創作した記録が残されている。これは常人はもちろん、他の俳人でも達することのできなかった領域である。
短時間で次々と俳句を創作することができる西鶴。矢数俳諧ではまさに「サイダーの泡のように言葉が湧き上がっていた」といえるだろう。

・発信ツールは時代を越境し、融合する
俳句は江戸時代において重要な発信ツールであっただろう。松尾芭蕉の俳句集「おくの細道」は芭蕉の紀行文であり、今でいう旅行中のツイートを総集したかのような作品である。
現代社会における発信ツールで中心的存在を占めるのはSNSである。そのジャンルはいま投稿しているnote、Twitter、Facebook、youtubeなど挙げればキリがない。

本作では江戸時代に隆盛した発信ツール「俳句」と現代社会における中心的発信ツール「SNS」が融合し、共存関係を構築している。俳句という、発信者の感性が言語化された唯一無二である「ことば」を拡散力が強いSNSに投稿することによる効果は作中では希薄である。しかし、俳句という特筆性の強いことばを投稿した結果、チェリーとスマイルは邂逅を果たした。
SNSに存在する「ことば」は事実・虚偽・意見・感想など多様なことばが混沌と入り混じっている。そこへ俳句という一種の芸能文化に根差した「詩」を投稿することによって、そのことばは独自性を強め、ことば自体の復権が推進されていくのではないだろうか。

・インターネット全盛時代における、ことばの存在意義
前述の通りSNSをはじめインターネット世界には多種多様な言葉が混沌と入り混じっている。言葉が入り混じるということは言葉が有するジャンルも増加しているといっていいだろう。何がファクトで、何がデマなのか。その分類は利用者に委ねられている。
こう思うと、言葉の存在意義の低下が指摘されると私は思っている。
テクノロジーの進歩によって、ネットでは映像や写真のみで情報を伝えることが可能となっている。情報発信において個人の見解は排除し、ファクトオンリーでよいとする立場を取るなら言葉はむしろ不必要と言えるのではないだろうか。
情報発信者があえて「ことば」を使用する理由は、情報を明瞭化することと同時に映像や写真など視覚的情報から伝わらない発信者の感性や意見を言語化し、それを表面化するためなんだろうと思っている。
つまり、「ことば」は情報に主観が包含されている証として表象されているのだろう。

・まとめ
俳句は江戸時代から現代にかけて人々の感性を言語化し、発信するツールとして用いられてきた。創作にあたっては自らの身体に実直であるほど、ことばがサイダーの泡が湧き上がるように出現するだろう。古典芸能の一つである俳句を現代テクノロジーの象徴ともいえるインターネット空間に放出することによって、混沌化したインターネット社会の「ことば」を復権していく契機を付与してくのだろうと、本作を鑑賞して実感した。

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