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竜とそばかすの姫【作品における4つの特性】

みなさんこんばんは。
アニメ映画の夏がやってまいりました!公開から2日経ってしまいましたが、本日細田守監督「竜とそばかすの姫」を鑑賞してきましたので、自分自身の振り返りも含めて簡潔かつ速攻的に分析を行ってみたいと思います。
なお、完全にネタバレを含みますので、鑑賞されていない方はご注意ください。


1・ユートピア

本作の冒頭ではインターネット上に存在する仮想世界「Uの世界」を概観するシーンから始まる。この曲の格好よさと映像の世界観によって多くの観客は「Uの世界」へと誘われるだろう。

この描写を見て「サマーウォーズ」を想起し、共通点を見出した鑑賞者は大勢いるだろう。今回も・・・と言ったら失礼にあたるかもしれないが、「竜とそばかすの姫」においても仮想世界と仮想世界を往来する描写が多数存在する。
すずが生活している場所が現実世界だろ!という反論もあるかもしれない。しかし、どれだけ三次元空間を模写していたとしても、アニメーションで表現されている以上、それは人間にとっての現実世界である「実相」を借りてアニメーションで「虚相」空間を演出しているに過ぎないと考えている。つまり、すずが生活する世界は現実のような仮想世界と定義される。
このことから、劇場内では我々人間が存在する三次元空間>二次元の空間(高知県)>U という3層構造が確立されているといえよう。
※なお、本論では生身のすずが住む世界を便宜的に「現実世界」と定義する

「Uの世界」における特徴は現実世界に在界する人間にとっての「ユートピア」(理想郷)として構築されている点にある。これはサマーウォーズにおける仮想世界「OZ」では存在しえない特徴である。
すずをはじめとする50億人の人間は、Uの世界でアバターをまず製作する。ここまでは「OZ」も共通である。しかし、その先の過程において人々は耳にAirPodsのような機器を装着することで、アバターへ自身の意識を同化させる。これにより主体性を獲得して仮想世界へ移行してゆくことが可能となっている。つまり、「Uの世界」では生身の人間がより仮想世界内で「リアルな体験」を享受することが可能となっているのだ。
Uでは自らが理想とする姿および名前を創出できる。人々は現実世界の名前や姿といった固定概念から解放されることから、究極のノマド性を獲得する。さらに、Uではアバターを通じて自身の潜在的能力を引き出すことができる機能も備わっている。これによって女子高生のすずは50億の人間を代表する歌姫へと変貌を遂げる。
また、この点は断定はできないが、人間とアバターの間で意識が共有していたとしても、仮想世界でアバターが身体的被害を被った際も生身の人間の生命や身体へ重大な影響を及ぼすことはないのではないだろうか。本性も基本的に明かされないため低リスク性が実現しているといえよう。
Uは現実世界においてゲーム感覚で楽しめる娯楽的存在であると同時に意識共有によって主体的な参加が推進されていることから、Uはゲームの究極体系と位置付けられる。
一連の観点から、現実世界の人間にとって差異はあれど個人が望むノマド・娯楽・経験を享受できる世界であることから、「U」は「ユートピア」として捉えることができると考えている。
現代社会に目を向けると、アバターを使用したゲームが多数存在することはもちろん、VR機能を使用するなどして我々人類も仮想世界への移行実現に向けて着実に歩みを進めている段階である。今後もそうしたテクノロジーが進歩していくことは自明である。DXが推進されてゆく社会に対して、我々人類のユートピア要素、または人々が有する浪漫主義的要素を加えることで一連の仮想世界に相当な付加価値を与えられるだろう。Uの世界は近い将来実現が可能となるのだろうか・・・。

2・すずの自己超越

すずは「Uの世界」に存在するベネフィットを享受する。その要素は「自己超越」であろう。すずは歌が下手で嘔吐もしてしまった経緯もある。そんなすずは「Uの世界」において”Bell”と名乗る代表的歌姫として脚光を浴びた。そのまま歌姫の存在を維持し続ければ、きっと広告収入などで莫大な利益を得ることができただろう。しかし、そこで満足しない点にすずの人間的魅力が潜んでいる。
いつの世も、仮想世界における善悪論は存在するのだろう。すずは、勧善懲悪主義を掲げる自警集団から竜(東京の父子家庭の子供)を守るために、「Uの世界」内ではあるものの50億人の面前に姿を曝け出す。これは幼なじみであるしのぶの提案から行われたことである。しかし、仮想世界とはいえどもアバターではなく素顔をさらけ出すのだから、それに付随するリスクは仮想世界ならず現実世界にも派生することは言うまでもない。結果的に父の暴力から子供たちを守り、絆を深めることに成功するが、顔に傷を負ったり子供の父に殴打されそうになっている。
すずの一連の行動には自己犠牲精神が常に伴っている。これは「Uの世界」でも、生身のすずがいる世界でも同様である。これは川に取り残された子供を命と引き換えに救助した母の存在に起因するものであろう。
すずは「助けた」という成功体験から自己肯定感を養い、現実世界でも歌が上手に歌えるようにもなった。仮想世界を通じて自己超越を実現したといえよう。また、亡き母が完全になし得なかった「助け」を実現させたことから、母にとっても喜ばしい出来事であったと言えるのではないだろうか。
※ここで考える助けとは、双方に重大な被害がなく災禍を脱するという意味で考えている。

3・音楽が有する「力」


「いい映画にはいい音楽あり」と言う言葉を、スタジオジブリ の作品論本か何かで読んだことがある。本作も歌の力によって、アニメーションの世界のみならず、映画館にいる多くの鑑賞者が心を引き寄せられただろう。
各場面において、すずは「Uの世界」で獲得した歌唱力を活用し、他者を呼びかけるにあたって適当な言葉を意図的に「歌」で表現することによって、より象徴的な「言葉」となっているであろう。音楽理論については全く知識がないので、今後勉強したいところである。

4・父子家庭


細田守監督作品の特徴を一言で挙げるならば「家族的な絆」であると思っている。ここでいう家族的とは、核家族も含む一方、他者同士がまるで父と子のような絆を獲得している状態であるという意味である。(バケモノの子における九太と熊徹も”家族”である)
本作では「父子家庭」という、日本社会ではおそらくマイノリティーに位置付けられるであろう家族を題材としている。作中ではすずの家庭、東京の竜の子の家庭が該当する。そんな家庭において「絆の破壊」が顕在化している。特に、竜の子の家庭においては父が子供に絶対服従を命じ暴力体制によって支配している。さらに絶対服従の実現にあたっては、子供を介抱し、第三者でもあるすずへの暴力も見受けられる。
ここで父がすずを殴る直前で手が止まった要因を少し考えたい。すずを殴らなかったのは女子高生だからという性別的要因ではない。子供らを助け和平を実現しようとするすずの自己犠牲精神、またはその心意気にあると推察している。この場面ではすずの立ち振る舞いが客観的に描写されている。顔や介抱する姿、立ちはだかるまで多様である。本過程におけるすずの行動から、家庭内における擬古的な権威主義体制、支配体制への批判精神が垣間見えた。絆は細田守作品における表象的題材である。すずの精神によって本作でも絆は維持されたといえよう。

おわりに

最後までお読みいただき、ありがとうございました。1作を繰り返し見て考えを深めていくのも面白いのですが、今日見た作品をすぐに咀嚼して自分へ落とし込むことも面白いかなと思い、今回速攻で論考記事を書いてみました。取り急ぎ感満載なので駄文で申し訳ないのは山々ですが、少しでも作品を楽しむ上での素材として扱っていただけたら幸いです。

もう一度観に行こうかなと思っているので、次はもう少し論考対象を絞ってこの映画を論じてみたいと思います。仮想世界論にも興味がありますが、すずとbelleの二重性や共存意義の方がこの映画を象徴してて面白そうだし興味もあるのかも・・・なんだか贅沢な悩みを抱えています。

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