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ルドルフの恋


 ルドルフは東京都と神奈川県の境目に住んでいる。大きい団地のなかの小さな風呂のある部屋で、とても寒い。風呂の天井にはカビが生えていて、窓からは内廊下がのぞめる。

 ルドルフのことはだれも知らない。彼は琉堂十麩という名で通っているし、産まれた時から彼はトウフ君だったからだ。彼だけが自分のことをルドルフと呼んでいる。ルドルフには特別な友だちはいないため、本当の彼の愛称がなんなのか確かめようがない。
 先日、ルドルフは一年ほどため込んだ歯石をとりに歯医者へ向かった。歯科衛生士が彼の口のなかをのぞきこみ、きれいに取り除いてくれたのだが、彼の心はすこしも晴れなかった。前回、彼の歯をきれいにしてくれた中村さんは半年前に退職していて、目の前にいる田中さんは乱暴者で歯をカンカン鳴らしてうるさいので辟易したためだ。中村さんはどうしたの、と受付の人にきいてみると、隣町のエステで働いているんですよ、と教えてくれた。歯科衛生士なのにエステとは思い切った転職だと思ったが、彼女はエステティシャンの妹がはじめた総合ビューティーハウスを手伝っているのだと教えてくれた。
 次の火曜日、仕事が休みとなったルドルフはさっそく朝風呂を浴びて、中村さんの勤める総合ビューティーハウスにいってみることにした。一応予約を入れた。男性も施術可能か確認しておきたかったのだ。
 彼は隣町へとつづく坂道にむかって歩きだす。
「おいおい、急いでどこにいくんだい」
 声を掛けてきたのは同じ囲碁サークルに所属する田向源太郎だった。なぜかルドルフのことを囲碁「仲間」だと呼ぶ変な男だ。ルドルフは言われるたびに眉をひそめ、逃げ出したくなるのだがおかまいなし。
 ルドルフには友だちというカテゴリーもよくわからない。なぜなら一度も友だちと呼べる人間に出逢えたことがないからだ。彼はいつも一人で過ごしていたし、彼の両親がえらく心配していても、彼はいたって真面目に寂しいとは感じなかったから問題はない。いやもしかしたら感じていたのかもしれないけれど、本を読んだり囲碁を打ったり、内廊下を眺めたりしているだけで時間が過ぎてしまう。みんなが孤独を埋めるためにいたずらに人と交わろうとすることのほうが不思議だった。
「開店祝いにいく。そこをどいてくれないか」
 中村さんのことを伏せて答えると、田向はにやにやしたした表情を浮かべて、そこをどかなかった。
「どこかのスナックかい」
「いいや総合ビューティハウスさ」
 どうやら田向は隣町の総合ビューティハウスのことを知っていたらしく「この小汚いスニーカーはタイムマシーンでも搭載してるのかい。あれは一年前にできたのだよ、今からいっても開店祝いには間に合わないね」といった。
「そういう気もちで行くだけのことだ」
ルドルフも負けずにいった。
「その恰好でかい? あそこはね、昼間はお年寄りの社交場になってるんだよ。夜はOLのオアシス。一階のティーラウンジのアンチエイジングドリンクバーには、体にいい飲み物がたくさん置いてあるらしいよ。そこにはね、みんなこぎれいな恰好でいくの。こんな葉っぱをこすりつけたような柄のポロシャツによれよれズボン履いてる爺さんなんていないの」
「男も行っていいと言っていたぞ」
 さきほど電話で確認したのだ。男性のお客様もたくさんいらっしゃっています、と言っていた。このあたりの爺さんはたいがい、田向のいう小汚い恰好をしている。
「確かにいるが多摩のジオラモみたいな野郎ばかりだぞ」
 ちょい悪オヤジでブレイクしたモデルの男を真似た、チャラい爺さんが時々囲碁グループにやってくるのだ。通称「多摩のジオラモ」がやってくると、女たちは目を輝かせてすり寄っていく。田向はヤツを目の敵にしているようだった。囲碁も強いから余計に腹が立つのだろう。
「よし、じゃあこの俺がお前さんを多摩の……いや東京のジオラモにしてやろうじゃないか! そんであれだろう? ティーラウンジにきている婆さんに告白するんだろう? 手伝ってやろうじゃないかよ」
「けっこうだ」
「気に入ってくれたか」
「ちがう! そんなことをしてくれなくても大丈夫だと言っているんだ。私はこの服のままエステに行く。約束の時間になってしまうので失礼しますよ」
 坂にさしかかったため速度があがらず、すぐに田向が追いついてくる。昔、陸上部だっただけあり田向はなんのことなくルドルフを抜かし見下ろしてくる。ルドルフはもう息があがっているというのに、田向は汗ひとつかいていなかった。
「相手はだれだ」
「なんの話だ。約束? 総合ビューティーハウスさんとしている。残念ながら告白する相手などいない」
「ということはエステティシャンが目当てだな」
 ルドルフは自分の頬が熱くなっていくのがわかった。単純な男だから嘘はつけない。彼が一番嫌いな自分の欠点でもある。田向はそうか相手はエステティシャンか……と妙に納得しながら坂道を後ろ向きでのぼっていく。すっかり禿げあがった頭の後ろから、陽光がてりつけていた。
「エステティシャンかどうかはわからない。もしかしたら裏方にまわっているかもしれないし……」
「要するに会えるかどうかもわからない……という訳だな。だとしてもこの苔みたいな服といい、ガマガエル色の靴といい。他になかったのかね」
「どうせエステで着替えるさ」
 消え入りそうな声でいった。
 服などここ数年買っていないルドルフにとってこれは、おでかけ着であった。それを自然界と同化したモノのように言われたので、いささか不愉快だが、たしかに茶色くごつごつとしたこの靴は、ある意味ガマガエルだ。泥水との親和性はきわめて高い。
 そうこう言っていると赤い車が脇にとまった。商店街でブティックを経営している、早乙女桂太のアウディだ。
「あら男同志でデート? 乗ってけば、歩くとつらいわよ」
 坂を登っている人間に向かって、坂をくだっているアウディ運転手はそういった。飛び乗れる話ではない。
「けっこうですから」
 いこうとすると田向が「彼はこれから坂の上のエステティシャンに会いにいくので失礼します」なんていうから、ややこしくなってしまった。「それならば私のブティックにいらっしゃい。服をみつくろってあげる」といい、半ば強引に車に乗せられ、せっかくのぼった坂を下りるはめになったのだ。
「けっこうですから」
 ルドルフがドアを開けようとするが、チャイルドロックが掛けられていてあかない。ならば窓から出ようと窓を開けるが、閉められた。仕方なく早乙女のブティックまでやってきた。言い出しっぺの田向は先ほどよりも数倍声が大きくなり、これまた鬱陶しい。彼は興奮すると声が大きくなる癖があるのだ。囲碁で負けだすと会館に入った瞬間、彼の唸り声でその位置がわかる。
 早乙女の店は一階がブティックで二階はバーになっている。ブティックの売り上げはほとんど通販で占めているらしく、アルバイトの子がせっせと写真をアップしたり梱包したりしている。その傍らで早乙女が皮のパンツと白いセーターをルドルフにあてがい始めた。
「おいおい皮のパンツはやめておくれよ。僕はロッカーではないからね」
「あらこのスカーフもすてき」
 首にスカイブルーのスカーフを巻き始める早乙女。やけに楽しそうだ。完全にこの事態を面白がっている。梱包中のアルバイト員が、チラッとこちらを見て小さくにやけた。
「これではペットボトルにくっついてくるオマケのようだ」
 スカーフを引っ張りながらいった。
「せめて仮面ライダーと言ってちょうだいよ」
 一度外され、さらにきつく縛られる。もちろん首ではなくスカーフをだ。
 とつぜん田向が叫んだ。
「おい、お前さん。もう一時間経っているよ。二時をまわっとる。予約時間は大丈夫なのかい」
「あら今日、予約してたんだっけ? だったら早くいってちょうだいよ。で、いったい何時からなの」
「五時だ」
 遅れるといけないのでもう行かなくては、と言いルドルフは服を脱ぎだした。慌てて早乙女がそれを止める。
「お前さん。早くいってなにか予定でもあるのかよ」
 田向がいった。
「とくにない。だからこそ遅れないように早めに行く必要がある」
「三時間もなにをして待つんだ」
「まず位置確認をする。そんなわけで早くこの服の会計をたのみたい」
 あきれ顔のふたり。そこにアルバイトの梱包員が慌てた様子でやってきた。仕入れたはずのバースディ眼鏡が見当たらないというのだ。
「今日の発送にのせたいのです!」
 早乙女が箱を近くの段ボール箱を開けて探しだす。「どんなのだい」田向もそれにつづく。
「誕生日ケーキがのった伊達眼鏡です……あ、もちろんケーキはプラスチックですよ」
「わかっとるわい! そりゃあ、誕生日までに間に合わなきゃ、単なるジャマモンだよな。食うわけにもいかん」
 三人はそれぞれ段ボールを開けては閉めて、探しはじめた。
「あの……会計は」
 ルドルフの声は、彼らの騒動にかき消されていく。かといってルドルフは梱包員の仕事を手伝うつもりはない。ここにいる理由は客として来ているのだから、そういった内輪もめに首を突っ込む必要性を感じないのだ。長くかかりそうなので二階のバーで待つことにした。開店前だが内階段からなら入ることができる。一人になれたことで、ルドルフはほんの少し心に色彩がうまれた。

 横を向くと誰かの視線を感じた。
「ひい!」
 薄暗い壁からルドルフを覗いてる。目が光ってみえる。ゆっくりと近づく。それはルドルフ本人だった。壁に古く歪んだ鏡がついていたのだ。その歪みのなかに映ったルドルフの胸元には、なにかがささっていた。ルドルフはびっくりして胸ポケットからそれを取りだす。誕生日ケーキがのった伊達眼鏡だった。きちんと値札がついている。
「探し物はなんですかあ、みつけにくいものですかあ」
 昔ヒットした歌謡曲を歌いながら階段をおりると、田向が「へっ、のんきなモンだな」と段ボールから顔をあげた。ルドルフの手元に揺れるそれに気づくと、梱包員がすぐに飛んできた。慣れた手つきでそれを段ボールに押し込むと、少しして運送会社がやってきていくつもの段ボールをもっていった。そのなかのひとつに誕生日伊達眼鏡も無事おさまることができた。
「ありがとうございました!」
 深々と頭をさげる梱包員。黒縁の眼鏡に黒い帽子、マスク姿の彼女は、仕事が終わったのかロッカールームに戻ってしまった。
「あの子はこれでおしまいなの。これから別の仕事があるんだってさ」
 そう早乙女が教えてくれた。

 少ししてロッカールームから現れた梱包員は、中村さんだった。
 ポカンとしているルドルフの前でお辞儀をする仕事の終わった梱包員。
「おひさしぶりです。琉堂十麩さん」
「おぼえててくださったんですか」
 どういうこと、どういうこと……と騒ぐ早乙女。大笑いの田向。
「ええ、歯をみればすぐに想い出します。これから妹のエステに来ていただけるんですよね。私はそこでマッサージの仕事もしているんです」
「それなら同伴出勤、しちゃいなさいよ」
 はやしたてる早乙女。
「いや、まだ五時まで時間があるので、ここでコーヒーでも飲んでからいくよ」
「なに言ってんのよ、さっきは早く逢いたいって言ってたくせに」
「いってなどない!」
「いってたあ」
「いってない」
「まあまあ、お前さんたち」
「おもしろい人たちですね、社長」
 そんなわけでルドルフは、なんとなく仲間をみつけて、そこはかとなく恋のお相手までみつけて。この冬は、もうすこし暖かく過ごせそうな予感がしてきたのだった。

 


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