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【願いの園】第一章 02

ファンタジーを目の当たりにした。いや現象には必ず原因があるのだから相応の理屈が存在するはずだ。それがファンタジーに見えてしまうだけで。しかしそれは彼を神様と認めてしまうことにも繋がりかねず、それはなんだか心理的な抵抗があった。未知の科学を扱う宇宙人の方がずっとマシだ。実際その方が現実的だ(たぶん)。

結局受け止め切れないまま家の最寄り駅に到着した。これ以上悩んでも答えを出せそうにないので、いったん保留にした。

近所のスーパーマーケットで夕飯などを買って帰った。マンションをエレベーターで四階へ、四〇三号室のドアを開ける。

ただいま。

口の動きだけでそう言って鍵を掛ける。靴をぱっぱと脱いで、薄暗い廊下をたったと歩いていく。リビングはカーテン越しの西日に照らされ、蝉の声だけが染み込んでいた。荷物を片して、洗面所で手洗いうがいをしたところで、なんとなしに鏡を見る。

バスケ部時代に短かった髪は今ではすっかり背中まで伸びている。顔つきは、どうだろう、少しは大人になった気がする。

河西くんは、どう変わっているだろう。
今、何をしてるんだろう。

彼の連絡先は知っている。でも、中三の夏に塾を辞めて以来どちらからも連絡をしていない。元々ほとんどしてないけど、一度も無いのは不自然なことで、たぶん河西くんにも色々あったんだと思う。

久しぶり、最近何してる?

とか聞いてみたら、あの男の真相とか分かるのかな。いや、でも、約二年のブランクが気まずい。気持ち悪がられないかな……。でも河西くんはそんなこと思わないと思うし、でもそう思うことぐらいあるだろうとも思ってしまう。

不安だし、怖いし、うーん。

そもそも私を憶えていない可能性もあるんじゃ……。いや、流石にそれは考えたくない。けど、もしそうなら怖がられて即ブロックなんてことも……。
いやいや、そんなことは。でも――――。

グルグルと眩暈めまいを起こしそうなほど考えまくり、結論、明日の私に判断をぶん投げようと決めた。きっと冷静な視点から見事な決断を下してくれるはずだ。これは戦略的撤退であって、クレバーな選択と言える。頭の片隅から聞こえる盛大なツッコミは懇切丁寧に黙殺した。

いただきます。

午後七時半、手を合わせ、口の動きだけでそう言った。炊いたご飯とインスタント味噌汁、買ってきたお惣菜などで夕食の完成。テレビでお笑い番組を追っかけ再生しながらのんびり食べる。
その漫才は宇宙人の男と、連れ去られた男、という配役だった。

『このボタンは私の星で何百年も前から厳重に保管される伝説の道具で、押せば人類みなハッピーになるのだ。大変だったが、世界平和のため、こっそり盗み出してきた』

『大丈夫なんですかそれ』

『まあ見てろ、ポチっとな』

『爆発した‼ ちょ、爆発したんですけど⁉』

『や、やべえ』

『どうしてくれるんですか⁉』

『だ、大丈夫だ! 宇宙人の科学技術をなめんな! 高額請求必至だが仕方ない、くらえ復元ビーム‼ ふう、ほら、直ったじゃないか』

『あっぶないなぁ』

ふふと笑う。月どっか行ってそう。

番組が後半になった頃にデザートに桃のゼリーを食べた。初めて買うやつだったからどうかと不安だったけど、なかなか美味しい。また買おう。

洗い物、シャワーを済ませ、自室で本を読む。
タイトルは『説得についての科学』。

人を説得するには心理的な原理を利用するといい、という文言を本屋のポップで見かけて、いつまでも踏み出せない自分を説得するためにこれを勉強しようと企んだ。毎日少しずつ読み進めている。

半分近く読んで分かったのは、原因の一つは一貫性の原理かもしれないということ。これは自分の言動に一貫性を持ちたがる現象だ。その理屈は、一貫性を保つことが社会的評価を得やすいから。また、脳は燃費の悪い器官であり新しく回路を作ったり毎回選択肢を広く持ったりするのは処理に負担が掛かるから、楽をするためにも同じ状態を維持したがる――などらしい。

真偽は定かではない。

一応エビデンスありきの本みたいだけど、「科学的根拠があります」の信頼性なんてたかが知れてる。今まで何度ひっくり返って来たか。だから本当か疑いつつ、同時に割り切って役に立つ範囲で使っていくしかない。実際、ニュートン力学は相対性理論や量子力学によって修正されたり否定されてる部分もあるけど、特定の条件下では現在も利用可能な訳だし。

それに、とある人物によれば――これは反証主義と言ったと思う――科学とエセ科学を見分ける方法は反証される可能性の有無にある。これに従えば、例えば「実は違っていました」と言えうるからこそ科学であり、例えば神様のように、いるともいないとも証明できないようなものは科学とは言えないことになる。

私はこの考えが結構好きだ。
ただし。

宗教と科学。
これらは実のところ、同一視もできる。

九時を過ぎた頃、ガチャンと開錠の音があり、続いてドアを閉じる乱暴な音が響いた。私は本を閉じ、スマホを手にして立ち上がる。
ドアを開ければ、父さんがいつも通り酔っぱらって顔を真っ赤にしていた。とろんと眠たげな目をして、乱暴な動作で靴を脱いでいる。

私はスマホの読み上げ機能を使って言葉を発した。

『おかえり』
それから口の動きでもおかえりと伝える。

「…………」

父さんは何も言わずに冷たい視線だけを向けた。靴を雑に脱ぎ捨てると、ふらふらした足取りで私を横切って、居心地の悪さから逃げるように自分の部屋に消えた。

針で刺されたような痛みが胸に走る。
同時に、胸を撫で下ろす自分がいる。やめればいいんだけどなぁ……。

あまりに愚かで自嘲的に笑ってしまう。自分でばら撒いた画鋲を自分で踏みつけるような自作自演的傷心。阿呆の所業だ。もういっそ「私に酷いことする父さんが悪い!」とでも叫んでみようかな。責任転嫁をするなと言ってあげたくなる。

ドアを見つめていたのはどのくらいだろう、小さく息をこぼして、重い足取りでリビングの方へ歩いた。

明かりをつけて、ベランダに出る。
それなりに涼しい夜だった。風に撫でられながら空を見上げる。月はまだ東側にあって、見えるのは夏の星々。有名な夏の大三角形も東だったと思うけど、それを探したい訳じゃない。

かつて宇宙は神の世界と考えられていた。だから地上とは違う物理法則が働いていて、人間には予測できないとされていた。

しかしニュートンがそれを粉砕した。もちろんコペルニクスやケプラーなどの偉人たちを忘れてはいけないけど、天上と地上で同じ法則が成り立ち、予測可能であると証明したのはニュートンだ。これは神様の世界を科学の世界に引っ張り落としたと言える。

しかし彼は、これで『神様なんていない』とは言ってない。むしろ『やはり神様は素晴らしい』という立場だ。というのも、神が世界を創ったのだから、自然の秩序を知ること=神様のデザインセンス(知性)を知ることになる。だから美しい秩序であればあるほど神様の素晴らしさの証明となる。

つまり科学的探究はそのまま宗教活動だったりする。

これを私は否定できない。神様の不在を私は証明できないから。できないのにいないと決めつけることは十分に非科学的と言える。

とはいえ肯定もしがたい。
私にとっての神様は別にいる。

それは単に理屈っぽく、『人間は自然法則の中で活動する生命体の一つに過ぎず、言ってしまえば支配下にある。そういう意味で、自然法則は神様だ』という話。

であれば、奇跡も肯定可能だ。

量子論において確率は存在する。この世界を構成するミクロな物質は確率的な振る舞いをする。そこに奇跡の本質があると看做せば、筋が通る。
だから私は目を閉じて、確率という名の神様にお願いする。

どうか、必要な知識と巡り合わせてください、と。

たぶんこれなら確率がゼロではないだろうし、十分に期待していいはず。言うまでもなく、これは私が行動してこそ得られるもの。
ん? ふと遠くに、アゲハ蝶を見た気がした。でも、たぶん見間違いだ。夜中にはあまり飛ばないはずだから。

こうして、ある意味での日課を終え、私は部屋に戻った。

やがて日付が変更する時刻となり私はベッドに寝転がった。半袖半ズボンで薄い布団を掛けて、常夜灯の中で、ゆっくり目を閉じた。

最後まで読んでいただきありがとうございます