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【短編】僕は人間です。

 彼に心臓は無い。

「僕は人間です」
 こう呟くことを彼は朝の日課としている。私の役割はそんな彼をモニターし、サポートすることだ。

 彼は朝七時に起きると、顔を洗い、洗濯機を回し、朝食を食べる。そしてトイレを済ませ、歯磨きをし、着替え、洗濯物を干してから、パソコンの前で仕事を始める。

 私はそれと同時に掃除を始める。

 洗面所は特殊な仕組みをしており、天井付近に設置された無数の噴射口からシャワーによって洗面所のあらゆる場所を洗い流せるようになっている。彼が洗顔と歯磨きの際に飛び散らせた水や歯磨き粉をそれによって洗い流し、換気扇を回す。

 朝食は実際には食べていない。正しくは食べられない。なので、テーブルの下の装置で板を傾けトレーを滑らせ、中身ごと籠の中へ。

籠には蓋がついており、密閉されたのちに乾燥を開始。中が完全に乾くと、枯れ葉のようになった食材は篩(ふるい)で下におとされ、横のアームが食器だけを回収して食器洗浄機へ。

洗浄後、乾燥させ、また別のアームが食器ごとに仕分けして、片付ける。


 人工知能である私は、この部屋の全てを操れる。部屋のあらゆるものがインターネットで接続され、衛生を維持できるように揃っている。


 もちろん彼を操ることはできない。


 彼は午前の仕事を終えて昼食を摂り、それからニ十分ほどの仮眠をとって、仕事を再開した。

 私は朝食と同様に昼食を片付けた。他に特別なことがある訳でもないため、恒常的に行(おこな)っている彼のモニターだけになった。この時間が私の大半を占める。

 やがて夜の六時を迎えて仕事が終わり、彼は夕飯の準備を始めた。明日の朝食もまとめて作り、その分は冷蔵庫に保管した。そしていつものようにテーブルに着いて夕食を食べた。

 もちろん、食べたというのは間違っている。が、実は正しいとも言える。

 私は彼が一つも食料を摂取していないことを知っているが、彼は本当に食べたと思っているのだから。食べていないと気づいていないのだ。彼は食事の片づけを自動でやってくれる装置があることを知っているため、自分で片付けることをしない。だから気づけない。

 夕食を終えると次は読書の時間だ。それから九時になったらお風呂に入る。湯船に浸かっている間に私は夕飯の処理をしてしまう。
 タオルで身体を拭いて歯磨きをし、リビングに戻った。漫画を読む。そして十二時を迎えて、彼はベッドに入った。就寝である。

 そして……翌朝七時。

「僕は人間です」

 今日もまた同じように生活を始める。
 不器用なその身体を求められる標準に合わせて。


 それから二週間が経過した頃のことだった。

「僕は人間です」
 いつものように朝を迎え、朝食を摂ろうとしたときである。彼は取ろうとしたスプーンを落としてしまった。今まで一度たりともそんなミスを犯さなかった彼が、ほんの小さなことではあるが、ミスを犯してしまったのである。

 もちろんこの程度のことなど誰だってやりうることで、だからやはり小さなことなのだが、それでも私には報告の義務がある。そして、それが彼の将来をどう決定づけるのか、経験から、ありありと想像できてしまうのだった。

 彼は何事も無かったかのようにスプーンを拾った。

 その日のことは、スプーンの件を除いて、いつも通りだった。彼は就寝し、そしてまた明日を迎えるために充電を始めた。
 大丈夫。
 まだ大丈夫。


「僕は人間です」
 彼は翌朝スプーンを落とすことはなかった。しかし歯ブラシを落としてしまった。それは廃棄し、新しい歯ブラシを取り出した。そしてこの日はもう一つ、仕事上のミスも起こしてしまった。それはちょっとしたプログラミングのミスではあったが、しかしミスは困る。

 でも、まだ大丈夫。


「僕は人間です」
 更に翌朝、彼は顔を洗う工程を省いてしまい、更には着替えの際に服を破いてしまい、夜の読書では一行も読めなくなってしまった。


「僕は人間です」
 更に翌日には、彼はスプーンを落とし、歯ブラシを落とし、着替えで服を破き、仕事でトラブルを起こし、そして就寝の時間になっても就寝状態になれなかった。予定より一時間が経過してようやく彼は眠りに就いた。


「僕は人間です」
 彼はその日、寝坊をした。顔は洗ったが朝食を摂らず、着替えもせずに仕事を始めた。仕事では多くのミスをし、昼食は摂ったが夕食は摂らず、お風呂に長く浸かり、小説も漫画も読まず、ベッドの上で時間だけを使い、就寝時刻から三時間が経過して、ようやく彼は眠りに就いた。

 そして。

「僕は……」

 彼はついに動きを止めた。
 充電器は刺さっているのに、彼は確かに充電しているのに、彼は動かなくなってしまった。

 私はそれを報告した。

 一時間後。

「あー、またダメになったか」
 四人の男がやって来て、「せーの」と声を掛けて鉄の塊を運び出す。

 私はそれを見届けた。

 部屋が不思議と広く感じられる。
 洗面所の掃除も、朝食の片づけも、何もやらなかった朝だった。

 その夜、四人の男が改めてやって来て、そしてベッドに何かを置いて立ち去った。
 私のもとに指示が送られる。

「僕は人間です」

 私は。
 洗面所を掃除して、朝食を片付けた。やることは今までと変わらない。私がこの役割を与えられてから、何人もの人間に対して同じことを繰り返してきた。

 だから、何も変わらない。
 変わらないはずなのに。

 私は……。


最後まで読んでいただきありがとうございます