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universeとmultiverse

昨日の夜に公園を走ってみた。いつもは吸って、吸って、吐くというリズムで走っているが、その日は肺機能を鍛えるべく、吸って、吸って、吐いて、吐くという呼吸をループして走ることにした。

10分位して、矢張り肺が痛くなってきた。体内で押しつぶされるようである。其れと右足と左足に荷重が均等にかかってない。私は小学校6年の時に指が内出血を起こして以降、足が其々均等に力を分担する事が苦手になった。そして集中力の無さも相まって、ステップが左右にフラフラ揺れてしまう。

そうだ、集中力がないのだ、此の際、身体から発される信号を無視して、数瞬後に私が居る位置だけを見据えよう、と思いついた。

左様してみると、嗚呼、普段私が接していて、其れでいて会話に付いて行けないと感じる、明るい人たちの心理を薄ぼんやり悟ったような気がした。其の人達は、"universe"に生きているのだ。"universe"では、自身を中心に他人に対して関係を持つ、地動説的な人の見方だ。

他方、私には"mutiverse"が一般であった。"multiverse"では、他者を中心に他人に対して関係を持つ、天動説的な見方である。

私は今までuniverse的な見方には異様さを感じていた。何故なら、私にとって他人はカジノに於けるルーレットである。球を転がすと、摩擦係数や空気抵抗や速度によってボールが入る(厳密には入りそうである)位置は決定するが、其れは我々には不可知である。或る穴は私の態度にポジティブな報酬を渡すが、又或る穴は、其の人に私を全く嫌いにさせる。其の外れが連鎖することが、私にとって一番恐るべき事である。左様なればハブ、村八分であり私はそのカジノ社会には居られない。左様して出入りが出来なく成ったことが他のカジノ社会に入る時に信頼上の障壁にならぬとも限らぬ。少なくとも世の中の人間全員が弱きを歓迎する訳等無いのは歴史を見れば解る。

所が現実では左様の限りでは無いらしい。如何やら此の態度を取る人は自らの芯を確り持っている人だと好感を以て歓迎されるようである。私にはいささか全体主義的で専制的に感じられる代物は、他人と腹を割って関係するのに重要であるようだ。考えると、私はおっかなびっくり対応されるよりは、個人性を見る事が出来る人物と関わりたい。

私には是等の、一元と多元の何方が佳い関わり方であるかは未だ釈然としない。然し、此の二つの"宇宙"を行き来出来るだけの、私の操縦能力は具えて置きたいものだ。

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