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アラフォーの「好き」は「価値」になる?!#my story 2

アパレルメーカーで
当時、過去最高の売上を達成し
意気揚々と様々な業界でヒット商品を生み出しました。

そんな中で妊娠がわかって
無職となった私の生活は一変。

これまでのお話はこちら ↓


赤ちゃんって笑うの?


息子が笑わない赤ちゃんだと気づいたのは
生後7か月ごろに初めて
地域の子育て支援センターに行ったときでした。

そこは、子どもたちにとってはいろんなオモチャを使えて
キャッキャ自由に遊びまわれるパラダイス空間!

見守るママたちにとっては、くつろいで楽しくおしゃべりOK
さらに保育士さんや栄養士さんに相談もできる安心スポット♪

オアシスっ ‼
当時、子どもと引きこもってた私には
その場所が眩しく輝くオアシスにしか見えませんでした。


そして衝撃だったのは、息子と同じ月齢の赤ちゃんたちが
寝ててもヨチヨチしても笑ってるんです!ニコニコと。
赤ちゃんのママたちも笑ってました。

え!?赤ちゃんって笑うの?
ママが笑ってると赤ちゃんも笑うんだ!

笑わない赤ちゃんに何の疑問も持たず
どれだけ自分がしかめっ面でいたのか。

どれだけ外の世界から私たち親子を
自ら遮断していたのか知ったのです。

息子に対して心底申し訳なく思い、自分を責めました。
保育士さんや仲良くなったママさんたちが
そんな私に優しく寄り添ってくれました。

オアシスのような場所に救われ
私は毎日支援センターに通いはじめました。


怒りの「どうして?」

そして待機児童2年目。
通知書はいつになっても届きませんでした。

申請書の記入欄をはみ出して
希望する保育園を裏にまで書いたのに...

どうして働けないの?
どうして助けてくれないの?
どうして女性ばかりがガマンしなきゃいけないの?

「どうして...」ばかりの怒りしかありませんでした。
区役所に怒りの反乱を起こしに何度行こうと思ったことか。

何もできず、何もかもが情けなくなって
冷静に自分も周りも見えなくなって...

自己肯定感はとてつもなく下がりっぱなしでした。

今思えば、知恵を使って
稼ぐ方法はいくらでもあったはず。


どんでん返し

2011年3月14日、東日本大震災の3日後。
無事に執り行われた兄の結婚式のため
家族と石川県の実家に帰っていました。

おめかしした息子は可愛いくて可愛くて。
息子の写真ばかり撮ってました。

そこでケイタイに
知らない電話番号からの着信。

普段なら取らないはずの電話を
うっかりとってしまったのです。

電話の向こうから

『○○保育園の園長の△△と申します。
 4月1日から当園にご入園いただけるようになりました。
 つきましては3日後に健康診断に来てください。』

突然すぎて戸惑いすぎて
その時の感情がどうだったか記憶にありません。
ただ、号泣したのを覚えています。

周りからは兄の結婚式で
感動してる妹と思われたかも。

震災の影響か、キャンセルが出たため
息子は繰り上がりで入園できることになったのです。

そしてスーパーには食材も水も
トイレットペーパーも消えた東京にすぐ帰り
息子は待機児童から、保育園児となったのです。

本当は実家にしばらくいようと思っていたのですが
健康診断に来れないなら他の人に回す
と、園から何の躊躇もなく言われたのでした。


履歴書はただの紙切れ

急いで入園準備をするとともに
私の再就職活動も同時にスタート。

すぐに4社の派遣会社に登録。
私の経歴から見込みのある会社に
どんどん申し込み依頼をしていきました。

1以週間以上が経っても音沙汰ナシ。
1件も申し込みに至らなかったのです。

理由は
2年間働いていなかったブランクのせい。

名のある企業名が連なった履歴書は
使用期限切れのただの紙切れにしかすぎませんでした。

そして私は女性専用のハローワークに飛び込み
泣きながらこれまでのことや希望を訴えると
相談員さんから言われたのは

「まずは会社に属して働いている実績をつくること。
 希望する職種へはそのあと転職すればいい。」と。

そして堅苦しい名前の独立行政法人の事務職など
私の経歴に縁もゆかりもない5社の求人資料を渡され
履歴書を送るように告げられました。

けれど、5社すべて落ちました。

経歴、プライドなんて
もうそんなものはどうでもよくなっていました。


地に足着いたコツコツ音

再就職活動して1ヶ月ほど経ったころ
先輩からの紹介で社員として受け入れてくれる
会社にご縁をいただきました。

これで働ける!!!

給料は前職の半分。
それでも外に働きに行くという晴れ晴れしい気持ちで

働くことで誰かの役に立って収入がもらえる
社会の一員にやっと戻れる気がしました。

久しぶりにヒールを履いて
コツコツと地面を鳴らす音が心地良く
地に足を着けて生きていける気がしました。


というものの、ワーママという時短勤務での仕事
家事、育児をこなす日々はごった返し。

出勤前にいつもグズる子どもを小脇に抱えて保育園に送り
泣きじゃくる声に後ろ髪惹かれまくって出勤。
お迎えは急いで自転車をかっ飛ばす毎日でした。

時間に追われて慣れない生活ペースの中
私を救ってくれたのは ”ママ友”の存在。

みんな同じように働く7人のママたち。
同じような子育ての悩みを持ってて
相談し合って、助け合って、支え合って。
どれだけ救われたことか。

誕生日を祝い合ったり、旅行に行ったり。
園の先生たちもびっくりするほど仲良しでした。

ちなみに、子どもたちが小学生になった今も
家族ぐるみで仲良しなんです。


なんだ、この空虚感は!?

仕事を続けて安定した生活を送れるようになり
子どもにも習い事に行かせられるようにもなって
私たちはごくごく普通の「幸せ家族」でした。

子どもが小学生になって年々手が掛からなくなった
40歳を過ぎたころ。

何か足りない…

仕事は好きな商品を扱ってさえいれば良し。
昇進には興味なし。

会社 ⇔ 家の往復をし続けて
いつか子どもが手を離れたらどうする?
その時何をしていたい?
この仕事を続ける?
その先に何がある?

このままでいいの?

そんな風に考え始めていた当時の私は

特に趣味ナシ、手に職ナシ。
何か人より秀でてできることもナシ。
何かやりたいこともナシ。

なんにもナシじゃん!

そんなときに先輩ママでもある大好きな女性から
「さみしい」と打ち明けられました。

いつも一緒にいた息子さんが大学生になって
離れていくばかりで。

「息子ロス」だと...

うっすら想像していたことが
目の前の人の身に現実に起きている。

どうしよう...


ヒントはこれか?!

ぼんやりいつもようにインスタを見ていたら
目に飛び込んできた「パーソナルスタイリスト」の文字。

ん?なになに?

ムクムクと沸き起こってきた感情のまま
その手のインフルエンサーをフォローしまくりました。

なんか、なんだか気になる。
しばらくしても気になる。
ファッションが気になる。

無職だった2年間は
自分の「好き」という感情を忘れ去っていたけど
それでもずっと好きだったのはオシャレすること。

お気に入りの1枚を見つけたときのワクワク。
袖を通すと愛おしさが増して
ときめいたり、気持ちがアガったり。

いつも「オシャレ」「素敵」って言われたり
どこの服?と聞かれたり、友だちとのショッピングで
アドバイス求められたりすることが多かったことを思い出しました。

そして改めてファッションを学べる学校を調べて
行きついたのがイメージコンサルタント養成校でした。
すぐに体験に行き、ますますワクワクが高まる感覚を覚えました。

※イメージコンサルタントとはカラーコーディネートに加え、
ファッションやヘアメイク、立ち居振る舞いや身のこなし、
色彩心理による色彩戦術などから、
クライアントの職業やライフスタイルに合わせた
効果的な印象を提案・コンサルティングする専門職

私の「好き」は価値となって
誰かのお役に立てるんじゃないか?!

これだ!!!

my story #3はこちら


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