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【随筆】グータッチ

 七月七日、小暑。参議院選挙の終盤。さんきたアモーレ広場にて。
 夕方、兵庫選挙区で立候補していた末松信介文部科学大臣の応援に安倍晋三元内閣総理大臣が来神した。広場に犇く群衆は前回の参院選と違って、いい雰囲気だった。前回は選挙妨害じみた叫び声をあげる者が現れたりして、なんだか落ち着きがなかった。今回は下校中の高校生も多く、あの元総理を一目見ようと皆が立ち止まり、今か今かと待っていた。
 安倍元総理が到着した時、聴衆からは歓声があがった。選挙カーの上に立った安倍元総理は前回から病の悪化を挟んだからか、幾分細く見えた。しかし、一度マイクを握れば元気な声で応援演説を始めた。現職の時よりもフランクに、かつより熱がこもっている気がした。その熱は聴衆全体に伝播してゆき、ただでさえ暑い晩夏を迎えたばかりの三宮はおそらくあの日の兵庫県で一番熱い場所だったと思う。
 応援演説を終えると、安倍元総理が降りてきてグータッチを始めた。前回参院選はハイタッチだったのだが、コロナ禍の選挙はグータッチが基本だ。私も両手でグータッチをした。若さを失った皮膚と薄い皮下脂肪ゆえに浮き上がった骨とが直にわかった。年齢通りの肉体であるのと違って、その突き出し方、勢いは若々しかった。
 三ノ宮を去って、家に帰った。ちょっとした興奮を抑えながら、静かに眠った。
 翌日、午前中の活動をしていると、知人からLINEが送られてきた。
『安倍元総理、奈良県で銃撃』
 すぐに検索をかけて、真偽を確かめた。あまりに突飛な、戦後日本でありえない話に、脳が追いついていなかった。検索結果に安倍元総理銃撃の速報があがっているのを見た瞬間から、ゆっくりととんでもないことが起きてしまった、と心に黒い靄がかかり始めた。
 そこからは何もかもが手につかなかった。
 前日に目の前に居た、グータッチした人間が、大阪を跨いだ奈良で撃たれた? そんなことがあるだろうか。よりにもよって、奈良県で……。
 Twitterで調べると、いとも簡単に血を流しながら倒れている安倍元総理の写真が出てきた。銃撃の瞬間を捉えた動画が出てきた。衝撃的なことに、着弾の瞬間を映した画角のものもあった。一発目の直後、暫時静止して振り向いたところを撃たれる安倍元総理の仕草は生々しく、その後蹲る姿は私の中の一縷の希望を絶った。
 『助からない』
 そう思いつつ、この世界に奇跡というものが本当に起こるのならば、今こそその時だぞ、と何にともなく心の中で呼びかけていた。
 午後五時頃。諸々を終えて齧り付くように見ていたテレビ画面のアナウンサーが「速報です」と言った。その表情、間、視線の動き、それら全てが、最悪の事態を全国民に先んじて知ってしまった者の動揺を表していた。
「安倍元総理の死亡が確認されました」
 糸の切れたマリオネット、という比喩がある。私はこれまでその比喩を嗤っていた。しかし、速報を聞いた私はまさに、糸の切れたマリオネットだった。筋肉を持たない木製の瞼のように、カタンと一気に目を閉じて『自分はそんな世界には居ない。真っ暗な私だけの世界に居る』と現実を拒否したが、耳は閉じられず、死亡確認の報を繰り返すアナウンサーの声が聞こえていた。

 死は突然やってくる。様々な原因で。
 散々、この一年でわかっていたはずなのに『まさかそんなことは無いだろう。次の選挙も来神してくれたらいいな』と呑気に考えていた。
 数週間前に通話を繋いだ人の訃報が飛び込んできたり、前日にグータッチした人が殺されたりする。それが現実であり、この世界なのだ。
 人は簡単に死に、殺されるのだ。
 一瞬一瞬、その人と話している、笑っている、触れていることは尊く、貴重な時間なのだ。
 他人の死も自らの死も予測不能だ。だから、一秒たりとも人生は無駄にできない。

 何度目の後悔で、私は人生の本質を、当たり前の理を知った。

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