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【随筆】真に未経験とは何か

 夢の中では未経験の現象に遭遇することはないとされている。特によく言われるのは死だ。我々は死んだことがないので、夢の中では死なず、死にかけると絶命の寸前で目を覚ます。
 夢と無意識には密接な関係があるとされる。無意識とは即ち、常に感覚、記憶を溜め込む領域なので、夢は記憶の再現・再構築であり、記憶にないことが再現されようもないので、夢には未経験の現象が起こらないというわけだ。但し、「常に」感覚、記憶を溜め込むというのは、自動的に無意識へあらゆる感覚、記憶が放り込まれるという意味で、意識上に上らないようなことも無意識は抱え込んでいる。今日の昼に街中ですれ違ったよく見ていない人の顔も無意識には確かに相貌が放り込まれている。よって、夢の中で全く知らない人が出てきても、それは不思議ではない。おそらくその日、雑踏の中に見かけた人なのだ。
 怪談を蒐集していても、夢関連の話はこの無意識の働きで説明できてしまえそうなことが多い。知らない女が云々、記憶にない言葉が云々も、実はあなたが昔々あるいは昨日何気なく見聞きしたことなのではないですか、と私は言ってしまう(大抵、提供者は気分を害する)。とはいえ、夢・無意識に関しては未解明な部分が存在するので、それを怪現象として捉えるのはあながち自然な流れなのかもしれない。
 さて、話を戻そう。夢は経験済みの出来事により構成されているという立場で進めていく。冒頭あるように大抵の人は夢の中で死ぬ直前に覚醒する。しかし、私は中学生の頃、夢の中でちゃんと死んだことがあるのだ。

 光に満ちて真っ白な長い屈折階段を降りていると、突如として階段が消失し、そのまま私の体は高所から落下していった。そのまま底なしに落ちるのかと思えば、消失したのは階段の一部であり、私の体は残っていた階段の中ほどに激突した。全身を一気に包む衝撃。何故か脳の中心にのみ激しい痛みが襲い、そのほかに痛みを感じた部位はなかった。とはいえ、傷は全身にあり、骨が飛び出て血が噴き出していた。踏み板の上に真っ赤な血が溜まり、一定溜まると一つ下の段に滴り、また溜まれば一つ下に滴りを繰り返し、遂に踊り場にまで到達すると、白い屈折階段には赤い絨毯が敷かれたようだった。私はその様子を階段の中ほどで痛みに耐えながら眺めていた。次第に意識が遠のき、私は目を閉じた。次の時には私の死体を俯瞰する映像が浮かび、その映像もゆっくり天に昇っていくように遠ざかるのだった。

 死、そして死の少し後も夢に出てきた。すると、私は死んだことがあるのか。間違いなく無い。霊体がこのnote記事を書いていると想像するのはなかなか楽しいが(なにより死後に夢を見ているのも面白いが)無理がある。私の拠る立場からすると、夢の中で死んだ以上、現実でも死んだことがあるはずなのだ。話は複雑になってくる。
 なんとかこの矛盾を解消できないか、考えた。すると、二つの仮説が生まれた。
 まず一つ目。逞しい想像力によって生み出したイメージが夢に投影されることはあるのだろうか。あまりにも生々しく想像した物事ならば夢に出てきてもおかしくないのではなかろうか。
 次に一つ目を踏まえて、媒体から得た情報を想像で補完し経験にできるのではないか。例えば、小説に書いてあった風景をありありと想像したことによって、確固たるイメージを得ることができ、そのイメージはもう経験と呼ぶに差し支えないものになっているのではないか。
 これらの仮説を裏付けるような夢がある。

 二口女という妖怪をご存知だろうか。普通の女かと思いきや、後頭部に第二の口がついていて、長い髪の毛が物を掴み後頭部の口に運ぶ。(後に、手で食べ物を放り込む絵も見た)この妖怪にまつわる話は、ある女が物を食わないので周囲の者が怪しむところから始まり、最後は深夜に人目を忍んで食事している異様な姿を見られて終わる。
 幼い私はこの妖怪の絵を見ずに、これらの情報のみを聞いた。想像の上で、典型的な江戸時代の女性が夜な夜な後頭部にパックリ開いた大きな口へ長い髪を駆使して食べ物を放り込む、それはそれは恐ろしい姿が浮かんだ。少し特異だったのは、二口女の鼻から上はただ白い布を張り付けているように滑らかで凹凸のない顔を想像したことだ。その夜見た夢で、私は自宅の居間でぼうっとしていた。すると、居間と廊下を隔てている襖が勢いよく開き、そこには昼間想像したあの恐ろしい二口女が立っていた。二口女は私の想像通り、鼻から上は凹凸のない顔で、髪の毛がウネウネと触手のように蠢いていた。二口女は卓の上に置かれた物を手当たり次第に髪の毛で掴み、後頭部の口に詰め込んでいった。それをただただ私は見つめていた。

 想像したイメージがそのまま夢に出てくることは、これによって最もらしくなったのではないか。その後、有名な絵をいくつか見たが、二口女の表現でのっぺらぼうと重ねて描いているものはまず無い。よって、私が忘れているだけで無意識には確かにそういう二口女のイメージが保存されていた可能性は否定できるだろう。私の想像のみで生み出した二口女は夢に出てきたのだ。

 先に挙げた、階段が消失してのち落下死する夢も、私が死を想像したために見ることができた、と考えられる。想像力は未経験を経験に変えうる。ここでこの文章を結んでも良いのだが、小賢しくもう一つ別の視点を加えたい。
 二口女の夢が想像力によるものと書いたが、この想像の契機、取っ掛かりになったのは人から聞いた二口女の情報である。私の脳もそれほど異常な働きをしないので、やはり外から取り込んだ何かがきっかけとなって想像を働かせ始める。また、想像の素材となるものもたっぷりと頭に詰まっている必要があるだろう。
 二口女の姿にのっぺらぼうの要素が入っていたのを思い出してもらいたい。江戸時代くらい、女、妖怪というキーワードを受け取って想像を始めた脳が、江戸時代の女性の造形を構築するにあたって必要な知識を有していなかったのだろう。では、どうするか。江戸時代くらいの女性そのものは知らなくても、江戸時代くらいの女性の妖怪ならば知っていたのだ。
 様々な妖怪の名前を出して申し訳ないが、お歯黒べったりという妖怪をご存知だろうか。名の通り、お歯黒をべったりと塗って口を大きく開く大抵は女の姿をとる妖怪だ。この妖怪、実は目と鼻は無い。恐らくはそのお歯黒を塗った歯、延いては歯のある口を強調するためと思われるが、大抵目と鼻の無い着物姿の女性で今なお描かれる妖怪だ。
 江戸時代の女性そのものの姿は見たことはないが、江戸時代の女性の姿を借りて人を脅かすかの妖怪については絵で見たことがあった。よって、二口女のイメージを構築する際に足りない部分はお歯黒べったりの姿で補って想像されたのだ。
 どちらも口に関する妖怪だから繋がりやすいと言えば繋がりやすい。しかし、ここで言いたいのはその連想による混合ではなくて、夢は無意識に存在している記憶から必ず素材を持ってきて構築されるのではないか、という当然のことを言いたい。想像とは頭の中にある限られたい素材で作り上げるコラージュにも似た作業のように思う。素材が無ければコラージュは成立せず、白い土台がただ残っているだけになる。
 死の夢に話を移すと、死を想像するにしても記憶(素材)が必要になるということだ。落下死、転落死の類の様子を知る必要がある。
 私は生まれてこの方二十年になろうとしているが、いまだ人が死ぬ瞬間に立ち会ったことはない。その点、「死」をテーマにする詩が多い身として後ろめたいのだが、別の機会にそれは書こう。
 目の前で人が地面に叩きつけられる様を見たことは無く、また小説の中で落下死した登場人物を克明に(それは文章でありながら、ありありと映像を読み手に想起させるほど克明に)書かれているのも読んだことがなかった。
 ならば、この実際に見た死の夢は集合的無意識によってもたらされた死のイメージなのだろうか。生憎、私はユング心理学がちょっとオカルトに寄りすぎていると否定的に考えているため、その仮説はいただけない。
 思うに、テレビドラマなどによる影響なのではないか。子供の頃、つまりは平成の頃は、まだ記憶に新しいだろうが、暗い閉塞感のある時代だった。それは子供からしても明らかだった。明るくバカみたいに楽しそうに生きている大人など居ない。それはどの時代でもそうなのかもしれないが、そのように強烈に印象づけられている。ある種の固定観念にテレビの影響がないとは言えない。なんだか暗いニュースや暗いモチーフに溢れていたテレビ。コント番組にも就職難やリストラだという設定が使われていた。
 もちろんドラマでもそういった設定は多かった。『FACE MAKER』はまさにそういう暗いドラマだった。子供ながらに今生きているこの時代はどうしようもなく行き詰まっている、と感じていた。
 そして私はなんとなく覚えがあるのだ。『世にも奇妙な物語』かあるいは別のドラマかわからない。とにかく、刑事もの、推理ものには不可欠だろう。死体。私は死体をテレビで見たことがある。溺死体、轢死体、絞殺死体、毒殺死体、もちろん落下死した、飛び降り自殺した死体も。どれも特殊メイクなどで、そのように見せただけ、の紛い物だ。しかし、素材としては充分ではなかろうか。
 あとは想像力が素材を繋ぎ合わせ、整形し、変形させれば死の夢の完成だ。他人の死を自分の死へ。自殺を事故死へ。死体を死ぬ直前の人間へ。夢の終わり方はこうだった。
『私の死体を俯瞰する映像が浮かび、その映像もゆっくり天に昇っていくように遠ざかるのだった。』
 刑事もので鑑識と現場を見ている時のカメラワークによく似ている。

 以上から、実際に経験したことも見たこともないが、テレビという媒体から間接的に受け取った情報をもとに、経験したかのような想像を生み出したと言えないだろうか。さらに今や鮮明な映像や画面越しにテレビでは映せないような映像も見ることができるインターネットによって、より想像の素材も多くかつ高度なものへ変わってきている。私が危惧するのはそういった素材を得てしまった人々が経験したくもないと避けてきたことを経験したかのように想像してしまうことだ。浴びたこともない銃弾を浴び、浸かったこともない硫酸に浸かり、見たこともない凄惨な死が目の前に溢れる……。それを夢で見てしまった日には睡眠は休息にはならないだろう。
 情報に晒さられ続けた私たちが行き着く先は恐らくそこではない。もう少し先だ。それは想像力の放棄だ。ちょうど軍を持たねば戦争はしようがないと宣う憲法と似た考え方で、想像力を失ってしまえば寝ても覚めても悪夢を脳内に抱えることはあるまい、と脳の重要な機能が次第に退化していくことはあり得るのではないか、と勝手に危惧している。この点が最も怖いのだ、私は。
 けれども、私は脳の専門家ではないから、本当に情報に晒さられ続けた人間が想像を止めてしまうかはわからない。但し、夢という所から人間の想像の流れについて考えて書いてきたが、この流れが不要だとされてもおかしくないほどに厄介なものだと思えてきた。実際、私も幼い頃に悪夢を見続けるゆえに眠りたくない、という思考に至ったこともあるくらいだ。睡眠を優先して想像が切り捨てられる日も、いつかの進化過程であるかもしれない。

 長々と書いてきたが、結局のところ、私は死を経験していると言っておかしくないほどの想像をしてしまったことがあり、そのことは経験したと断定はできないが、経験していないとするにもあまり正確ではない。真に未経験とは一体どういった部分で考えられるのか、実は本来難しいところであったと思われるのが、媒体の高度化によりますます複雑になってきているように感じる。真に未経験なのは今のところ「終始、二人称時点で見る自分自身の立ち居振る舞い」の他に思いつかない。この際、全ての人は真に未経験、未経験ながら経験していると言ってもいいような想像、経験しているが未経験に等しくなってしまった過去など経験について様々な考察をめぐらせるといいだろう。案外、自分という存在が辻褄の合う部分と合わない部分の合わせ喰いであると気付けるかもしれない。

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