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【随筆】Tableau Triste

 さて、中原中也について語るには、私が詩を書き、詩と出会うまでのことを書かねばならないのだが、今回は割愛しようと思う。なによりそれ抜きにしても、中也について語らねばならないことは多すぎる。
 詩、というものを小学校で幾篇か、或はその数行を読んだことがあった。谷川俊太郎、工藤直子などはもちろん、私のぼんやりとした記憶では北村太郎、辻征夫の詩の一部分も読んだことがあるはずだ。当時、キタムラともツジとも知らないまま、なにより詩を意識しないまま読んでいたので、今になってその詩と出会うと「あら、あの時の人はあなたでしたか。これはしばらく」などと挨拶したくなる。
 中原中也とはこのように再会したのだった。中学校の図書室で初めて中原中也の詩を読んだ。中原中也という名前にまったくピンと来ていなかったが、詩をいくつか読むうちにその魅力にのめり込んでいた。初めて会う天才詩人の詩。しかし、「汚れつちまつた悲しみに……」の二行を読んだ瞬間、一気に幼い日の記憶が蘇り、少々声を出してしまった。そう、彼とは、初めまして、ではなかったのだ。
 同世代の人間の話を聞くと、文学作品と出会ったのは『にほんごであそぼ』というNHKの教育番組であることが多い。「雨ニモマケズ」や「蜘蛛の糸」などが歌やダンスに合わせて紹介されていた。「汚れちつまつた悲しみに……」もその一つだった。但し、これには音楽がほとんどなく、野村萬斎があの独特の声で詩を読み上げつつ、その世界観を伝える劇を演じていた。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる

 この二行を昔々わけのわからない集注をもって聞き入っていたことが、図書室の隅、スカスカの詩歌の棚の前でありありと思い出されたのだった。私の足はまっすぐと図書委員の座っている貸し出し受付へと向かっていた。帰宅後に再びその詩集を開いた。懐かしい詩人の書いた未知の詩たちに私は詩を見て、詩と出会った。誰も教えてくれない、教えられない詩の真髄をようやく少し知れた気がした。
 しかし、図書室にあった詩集というのはまさに入門中の入門といったようなアンソロジーだった。私は更に中原中也を知りたくて、文豪ストレイドッグスコラボカバーで近所の書店に積まれていた『汚れつちまつた悲しみに……』(角川文庫)を買った。これは実は僥倖とも言える。定価五六〇円のこれがなければ、岩波文庫か角川ソフィア文庫から出ているものを買わねばならなかった。それが意味するところは、そこそこ大きな書店に行かねばならないことと当時の小遣い事情だとおそらく買うのを躊躇っただろう価格だったことだ。気軽にすぐにこの一冊が買えたことは、その後の私が詩を書いていく上で重要な事だった。
 この角川文庫から出ているアンソロジーはそこそこ厚く、有名な詩をおさえつつ、あまり有名でない詩も収められていた。図書室のアンソロジーよりももう少し深く中原中也を知れる、と喜んで読んでいったのを覚えている。
 沢山の素晴らしい詩と邂逅する中で、とても気になった詩が一篇あった。それが「Tableau Triste」だ。中学英語しか知らない私でも、これがどうも英語でないことはわかった。不思議な題名も気になったが、なにより付されている言葉が気になった。

A・O・に

 普通ならば、誰だ、と思うところだが、私は違った。ページに印刷されたイニシャルが形を変えて、はっきりとある人の名前が浮かび上がる気がした。その名前というのは、簡単に言えば、中学校進学とともに別々になった思い人の名前だった。綺麗にぴったりイニシャルが一致していた。今も昔も、いろんな名前があって、中也自身いろんな人間と関わっていたにもかかわらず、よりにもよってこのイニシャルの人間に捧げる詩があろうとは。つくづく詩の神様とは悪戯好きな神様だと思う。
 中学生などというのは男も女も繊細すぎる生き物で、私もかつては例に漏れずそういう中学生だったので、ただの偶然に際して、十秒ほど読み進めるのを躊躇った。躊躇って、少し心が疼きながら、本文を読んでいった。
 その詩があまりに不思議なのだった。
 不思議、という言葉が陳腐なものに思われるかもしれないが、本当に不思議という言葉が適切だった。詩の世界が頭に入りづらいのだ。それまで中也の詩を読んできて、まったく無かった現象だった。まず「画面」に苦戦し、次に「額のプロフィル」に苦戦し、「騎兵のサーベルと長靴」に苦戦した。
 何度も何度も読んで、次第に詩の世界がわかってきて、ようやく自分なりの解釈が生み出せた。そして、最後の最後にはある連の内容を自分に重ねていた。

読者よ、これは、その性情の無辜のゆえに、
いためられ、弱くされて、それの個性は、
その個性にふさわしき習慣を形づくるに、至らなかった、
一人の男の、かなしい心の、『過去』の画面だ、……
「Tableau Triste」第三連

 後に、この題名の意味を調べたところ、これはフランス語で「悲しき画面」というらしい。(「哀しみの画面」とも出てきたがそのあたりの微妙なニュアンスが私にはわからない)それさえも知らないで、私は解釈して、かなり自分に引き寄せて読んだのだった。今になれば、当時とは別の解釈も出てくるのだが、あの頃の私が感じた事も大切に無意識の海に沈めておいてある。
 今もなお持っているこのアンソロジーには、「Tableau Triste」のページに栞が挟まれて本棚に入っている。いつでも読み返せるように。

 余談だが、私は中学校以来、女性の額に魅力を感じることが多々あった。男も女も異性を見るうえで注目している体のパーツが一つはあるものだ。目がパチリしてる人が好き、とか、鼻が太い人が好き、とか。私の場合、額に目の行くことが多い。
 もしかすると、「Tableau Triste」の詩を読みすぎて、無意識が額に反応するようになってしまったのではないか、と今回の随筆を書いていて思った。

私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色のランプの光に仄照らされて、
嘲弄的な、その生え際に隈取られている。
「Tableau Triste」第一連

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