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共感っていいことでもわるいことでもないのかも

何とはなしに見ていたテレビから、共感は必ずしも必要ではない、という趣旨の話が流れてきた。
私にとって、「共感」は、割と身近にあって、絶対必要とまでは思っていなくても、なんとなく、共感できる=〇、共感できない=△、みたいなイメージがあったかもしれないということに気づいた。

なんでもSNSのせいにするのは好きではないけれど、「共感」と言われてすぐに思いついたのは、SNSだった。
♡ は、いいねとか、好きとか、わかるとか、そういうポジティブな意思表示として使われるようにできていると思う。
その中には、共感も十分に含まれていて、共感されるから♡の数は増えて、♡ の数が増えることは良しとされる。
たくさんの共感が集まるのはいいことだと、半分は無意識で感じていたのだと思う。
実際、もらえると、ちょっとこそばゆいけれど、嬉しいしね。

でも、共感できないことが悪かと言われると、そうとは思っていないのも確かで、仮に、あなたの言うこと全部共感できます、なんて言われたら、絶対嘘だと思うし、怖いと思う。
私自身も、他人の言動に対して、そうは思わないとか、理解不能とか、そういう風に思ったことは何度もある、というか、そっちの方が多いはず。

ここまで書いて思ったのは、人間って、人間だなぁってこと。

共感されると嬉しいときもあるし、共感されないと悲しいときもある。
でも、共感されても気にしないときもあるし、嘘つけって思うときもあるし、ほっといてくれってときもある。
共感されなくて、当たり前だって思うときもあるし、なんでって困惑するときもあるし、自分だけがわかる優越感を覚えることもある。
「共感」一つとっても、矛盾ばっかりで、でもそれが人間らしさなのかもしれないなんて思ったりもします。

そういえば、昔、英語の問題集に出てきた長文で、共感は人間だけができるものである、みたいなことが書いてあった。
たとえ、経験したことがない出来事であっても、相手の感情を想像することができるのは、人間ならではだと。

確かに、他人の喜怒哀楽やそれらを含む複雑な組み合わせやまぜこぜの感情を想像できるというのは、どうやったらそんなことできるのかしら、と不思議に思えてくる。
加えて、同じ経験をしていなくても、その場にいなくても、成り立つのだから、人間、想像力豊かになりすぎでしょ、と思う。

これまた、ここまで書いてきて、共感って、再発見なのかなぁと思った。

自分の中にあるけれど、普段は気にしない感情を刺激されたときに、自分もそう思う! って思うことなのかなぁと。
SNSとか、ほかのものでもいいけれど、何かに触れたとき、たぶん、完全に初めての感情だと、想像もできなくて、共感には至らないのだと思う。
だから、自分が持っている感情で、相手にいちばん近い感情を探し出せたとき、共感できるんじゃないかなぁと思ったのであります。

共感できるかできないかは、良し悪しではなくて、単に共感するかしないかという事実でしかないのだと気づいた初秋の夜でした。

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