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晴れとか、雨とか、

「晴耕雨読。晴れた日は田畑を耕し、雨の日は家で本を読むという意味です。」

中学の国語の授業で、先生がこう言ったとき、私は、「晴れの日も、本を読みたいなぁ」と思ったのを覚えています。

本を読むって、ちょっと、不思議な体験だと思う。
私の身体は、現実のここに存在しているのに、感覚のほうは、本の中にいる。
登場人物たちと同じような年齢、見た目、能力で、まるで仲間のように一緒に過ごし、彼らが敵と戦い、難事件を解決するさまを、すぐ傍で見ている。
本を読むとき、身体と感覚が、別々に存在していて、身体の方は完全に意識から抜け落ちている。

ある時期の私は、文字通り、貪るように、本を読んでいた。
いつでも本を読めるようにスタンバイしていて、学校の休み時間も、家に帰ってきてからも、とにかく本を読んでいた。
現実に起こることをすべて忘れるみたいに。
考えないように、するためだったかもしれない。
私にとって、読書は、一番集中できることだったから。
自分を無意識に近づけられる時間だったから。

今は、そういう読み方はしていない。
よく噛んで、味わうことの、楽しみを覚えたから。
本を読む時間、手元には一冊だけを置いて、その本と向き合うようにする。
集中する対象が、読書という行為から、特定の本という物体に変わった感じ。
それを、どうやって習得したのかは、覚えていないけれど、たぶん、体力が衰える一方で、読書への欲求はとどまるところを知らないから、そうせざるを得なくなったのだと思う。

貪るように読んでいたときは、同じ作品を繰り返し読むことも多かった。
お気に入りのシリーズを一周したら、二周目、三周目に入って、何度も読む。
読み返すことで、読み飛ばしや伏線にも気づけるから、勢いに任せて読み進めることに抵抗がなかった。
しかし、いつからか、同じ作品を何度も読むのが億劫になり、本を読むにも体力が必要だと知った。
それに、同じ本を二度読む体力があるなら、半分はほかの本に回したいという欲もある。
だから、できるだけ、一度ですべてを吸収できるように、深く、ゆっくり、ときには戻って、ページをめくる手をちょっと制御するようになった。

今と昔で、本の読み方は変わった。
けれど、私にとって、読書が体験で、それが魅力的であることは、変わらない。
自分の身体だけでは経験できないこと、頭だけでは考えられないこと、知らなかった感情、いろんな、一人では、現実だけでは、出合わなかったかもしれないことを教えてくれる。
私にとって、本の世界は、現実の隣で起こっている並行世界みたいなもので、あっちとこっちを行き来することで、なんとか、バランスをとっている。

だから、晴れとか、雨とか、そういうの関係なく、本が読みたい。
私のタイミングで、本の世界に、逃げて、相談して、考えて、楽しんで、癒されて、そうして、また現実に戻ってくるの。
理想の生活だわ。

中学のころから、変わらないのね、私。

本がたくさんある時代に、生まれてよかったね、私。

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