高橋【小説】

暑さで目が覚めた。
エアコンを見ると沈黙している。記憶にはないが、多分夜中に寒くなって、自分で消したのだろう。よくあることだ。


窓の外はすでにかなり明るくなっていた。カーテンは基本的に閉めない。
再度エアコンを点け、iPhoneのボタンを押し時間を確認する。
5時前だ。さすがに起きるには早すぎるが、子供の頃から一旦目が覚めると、二度寝ができないタチなので、とりあえずベッドから体を起こした。

起こしたところで、仕事に行く準備をするには早すぎる。枕元のリモコンを手に取り、テレビを点けた。

『おはようございます』

ちょうど朝の情報番組が始まるところで、朝の5時とは思えないくらいに小綺麗な服装をしたアナウンサーの男女が映る。

テレビからの挨拶は無視して、とりあえず歯を磨こうと、洗面所に向かった。

寝る前にしこたま磨いたはずの口内は、寝ている間に雑菌を繁殖させて、爽やかではない朝を演出する。

恋愛ドラマや映画のカップルが朝からキスをするシーンは嘘だ。起き抜けは誰でも口が臭い。マシかマシじゃ無いかはあるかもしれないが、あんなに爽やかな笑顔でいられるはずがない。
まあ、体験したことはないが、きっとそうだ。

朝の歯磨きは多めに歯磨き粉を付けて、口内をミントの香りで洗い流す。
舌も磨く。黄ばむブラシ先を蛇口の水でで何度か流し、綺麗になったことを確認すると、口を濯ぎ、そのまま顔を洗う。水がいつまで経ってもぬるい。

寝癖は直さない。外出時も、仕事場でも常に帽子をかぶるので、ほっといても直る。そもそも、見た目を気にするという概念がない。

顔を拭き、部屋に戻るとエアコンが効いていて、涼しくなっていた。
テレビでは昨日不倫が発覚した俳優のニュースが流れている。いつ、どこで、どのように会ってて、うんぬん。

どうでもいいが、無音よりはマシなので点けたまま朝食の準備をする。
とはいえ、トースターに食パンを突っ込み、ウィンナーを二本電子レンジで温めるだけだ。
トマトジュースをコップに注ぎ、2分待つ。

トーストに温めたウィンナーを挟み、ケチャップとマヨネーズをかけた即席ホットドックをトマトジュースで流し込む。すぐに食べ終わり、汚れた食器を流しで洗い、水切りに置く。

後は着替えて家を出るだけだが、まだ1時間半は時間がある。
スマホで求人アプリを開き、週末の単発案件を探してみる。時給1200円のアルバイトだけだと、多少残業があっても手取りが厳しい。土曜、もしくは土日に単発の仕事を月4回以上すれば、20は稼げる。

それくらいはないと、今の生活が維持できないし、趣味にまでお金が回らないので、高橋は義務のようにそれをこなしている。
そんな生活を2年と10カ月は続けている。

めぼしい仕事いくつかに応募し終わると、30分過ぎていた。あと1時間。
何気なくiPhoneのスケジューラーを開けて、予定を確認する。
今週も金曜の晩に水色のマーキングが入っている。キャナリンに逢いに行くのだ。

キャナリンに逢える。
想像するだけで口元が緩む。推しになってそろそろ一年。出会ってから今まで、高橋はただそれだけの為に生きていると言っても過言ではない。恋とは違う。性欲とも違う。ただただ愛おしい。ずっと見ていたい。応援していたい。

子供はいないが、もし子供がいたら、同じような気持ちなのかもしれない。高橋が地下アイドルのキャナリンに向ける想いは、そんな無条件の愛だ。高橋自身はそう考えている。

キャナリンのSNSを見たり、ライブスケジュールを見ているとすぐに1時間経った。
着替えには1分もかからない。いつも通りのいつもの服を着て、エアコンを切り、仕事に行く為に、家を出る。

自転車で20分。冬は仕事場に着く頃にちょうど体が温まっているが、夏は着いた時には汗が全身を纏っている。
必要以上に冷えたロッカーで体を冷ましながら作業着に着替え、始業まで食堂で待機する。

場違いなスーツをきた男性と、若い女性が緊張した雰囲気で食堂の隅に座っている。派遣会社の営業と新人の人だろう。若い女性がはいなくはないが、少ないので、多分どうせすぐにいなくなる。

人の入れ替えが頻繁にある職場だが、高橋はこの仕事が自分に向いていると思っている。大きな機械に組み込む為の何かの部品を手順に従って、組み立てて次に流す。ただそれだけの単純作業で、周りと多少のコミュニケーションはとるが、必要以上ではない。
そもそも必要以上に喋る人がいると、社員から注意されるし、それが度を越す作業者は気がつくといなくなっている。
契約更新されなくなる。要するにクビだ。

なので、他人とのコミュニケーションがあまり得意ではない高橋はこの職場が気に入っている。

そろそろ始業の時間が近づくと、食堂で待機したいた作業者がゾロゾロと作業場に向かう。それぞれ自分の定位置に立つ。全員が定位置についたのと同時にブザーがなり、作業が始まる。

作業中は思考が止まる。止める。手順以外のことを何も考えず、まさに無心で組み立てる。座禅をさせられれば、始めから終わりまで、全く肩を叩かれることなく終わるだろう。
ある種の障害かもしれない、と考えたこともあるが、それによる弊害はないので、気にする必要はなかった。
おかげで気がつくといつもいつもあっと言う間に終業時間になる。ちょっとしたタイムリープだ。

今日は作業が始まってしばらくすると、肩を叩かれた。

「高橋さん、今日から入った新人さんに組み立て教えてもらっていい?」

振り向くと社員が横に新人を連れて立っていた。さっき、食堂にいた他社の派遣スタッフだろう。

「え、あ、はい。大丈夫です」

いい?と聞くが、自分に選択権はない。

じゃ、ヨロシク、と手をひらひらさせながら、社員が去っていく。新人が、よろしくお願いします、と頭を下げる。
声からすると若い子だ。目だけを見ると可愛いように見えるが、マスクを外すとそうでもない場合も多いので、期待しないでおく。期待したところで何もないし、そもそもこれ以上の接点が発生しないし、発生させ方もわからない。

「えー、と、そしたら、こっちに立ってもらっていいですか」

「はい」

あぁ、声が可愛い。髪の毛を帽子に入れ込むことによって、露わになったうなじが綺麗だ。普段、若い女性と関わることがないので、それだけで少し、胸が高鳴る。

仕事の手順を教えながら名前だけは名札を見て覚えた。織田さんというらしい。胸がでかい。グラビアではなく、生の人間で若くて多分可愛くて胸が大きい女性がこんなに近い位置にいるというのが、慣れない高橋にとっては非日常だ。
顔が熱くなる。

高橋は極力事務的に、彼女の方を見ないように、作業を教えた。飲み込みは悪くなかったので、すぐに一通りできるようになった。社員を呼び、一通り教えてできるようになったことを告げると、社員は彼女を先日他のスタッフが辞めて、空いたスペースで作業をする様に指示しながら連れて行った。

惜しい気もするが、気が気でない状態でもあったので、気持ちを切り替えて再び作業に没頭した。

ブーというブザーの音と共に、午前の仕事が終わり、昼休みの食堂では、ベテランのおばさんや、おっさんが新人の彼女に絡もうと、聞いてもいないのに、冷蔵庫のルールや、ゴミの分別などを教えてあげていた。

遠目に見たマスクを外した彼女は、想像した以上に可愛く、普段からアイドルばかり観ている高橋の審美眼を唸らせた。
普通なら恋に落ちるところかもしれないが、高橋は自分を弁えている。唸らされただけだった。

午後の仕事が始まり、終わるといつも食堂でダラダラ喋っているベテラン勢の中に、花が一輪咲いている。場違いにも程がある。聞こえて来る会話によると、この後簡単な歓迎会で飲みに行くようだ。

自分には関係ないと、帰ろうとした此方に気づいた彼女が近づいて来る。

「今から飲みに行くみたいですけど、高橋さんも行きますか」

まさかの誘いに狼狽する高橋に、小声で顔を寄せ、

「年が近い人があんまりいないので…無理ですか?」

普段なら絶対に行かないし、そもそも誘われもしないが、思わず高橋はうなずいてしまった。

歓迎会は近場の居酒屋で行われ、幸運なことに、たまたま彼女の隣合わせになった。彼女はおっさん、おばはんとも上手に話を合わせ、適度に高橋にも話を振ってくる。会話が苦手な高橋だが、この日だけはいくらか饒舌に会話に参加することができた。

居酒屋での飲み会がひと段落し、何人かの酔っ払いがカラオケに行こうだの、二次会はどうするだの言っている中、彼女は帰るようだ。高橋も帰ろうと自転車の鍵を外すと、後ろから

「高橋さん、家どっちなんですか?」

綺麗な鈴の音のような声が、高橋の耳に届いた。
振り向くと、

「私も帰るので、駅まで送ってくれないですか」

と少し飲んで顔を赤らめた天使が立っていた。

返事もそこそこに自転車を押す高橋と連れ立って歩く。妙に饒舌になる高橋。酔っぱらっちゃったと、彼女が高橋に寄りかかり、腕に手を回す。高橋の肘に彼女の大きな胸が当たり、ふと彼女に顔を向けると、うるんだ瞳で高橋を見つめる彼女。

ブーーーー

終業の10分前になるブザーで高橋は我にかえった。下半身が熱く固くなっている。さりげなくそそり立つものをパンツのゴムに引っ掛けて、テントを目立たなくする。

残り10分で、持ち場を片付けて、今日の作業書にチェックを入れていき、書き終わると同時に終業のブザーがなった。

下半身も頭もすっかり冷めていた。

着替えが終わり、出口に向かうために通る食堂にはいつも通り、無駄話をするベテラン勢がいて、その中には一輪の花も咲いていなかった。

小声で、お疲れ様です、といつものように呟き、出口から駐輪場に向かうと、彼女の姿が見えた。ちょうど出るところだったようで、高橋に気づくと、お疲れ様です、と会釈され、颯爽と自転車で去っていく。

少しその後ろ姿に目を向けたが、すぐに自分も自転車に乗り、帰路につく。
彼女とは逆方向だった。

家に帰り、まずはエアコンのスイッチを点ける。そして、シャワーを浴びる為に、汗でまとわりつく服を脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。洗濯は1週間に一度だ。一人暮らしの男の洗濯物など、たかが知れている。

シャワーからあがり、さっぱりするとテレビを点けた。バラエティー番組に、マイティンが出ていた。キャナリンの前の前に推していた元アイドルで、今は立派なタレントさんだ。

嫌いになったわけではないが、推しじゃなくなってからしばらくぶりに顔を見た。
ツインテールは健在だが、もう高橋の記憶の中のツインテールではなかった。どう違うかと、仮に質問されたとしても、説明できるものではないが。

テレビを見るともなしに観ながら、夕食を食べる。素麺を茹でて、カニカマを散らしただけのものだ。食べ終わり、空腹がなくなると、つまらないテレビを消した。

テーブル兼コタツの上を片付けて、ノートパソコンを設置して、ヘッドフォンを装着する。耳を全部覆うタイプの、高級なヘッドフォンだ。4万円もした。

ノートパソコンが速やかに立ち上がり、中に入ったままのDVDがライブの映像と音楽を立ち上げる。金曜のライブの予行演習だ。

ステージの左隅にいるキャナリンが舞い踊る。推しになり始めのころは、下手なのになんて一生懸命に踊る子だと思っていたが、1年が経ち、努力が実力に追いついてきた。キレの良い動きが観ていて心地よい。

小声でコールを口ずさむ。
まだ月曜日が終わったばかりだが、金曜の夜が待ち遠しい。後2年経って魔法使いになれるなら、願わくば時間を飛び越えられる魔法が使えるようになりたい。
早く。早く君に逢いに行けるように。


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