見出し画像

俺の作る俺の最強の元素

元素であるなら俺以外でも誰でも良いんだよな、というのを改めて考えた まさしくその通りという意見を見てとてつもなく頷いた 元素ではなくて、知識とか学習ではなくて、隣人として世界の傍にいる存在として知覚するために俺は本を作るのであって、学習なんぞ俺がやる役割ではないと 改めて納得して考えてた いくら元素というものが学習として認識されようと、生きる限り隣にいるのは元素であるということが 宗教的な側面があったとしても俺はそう認識し続けるし それでこそ作りたいものが作れる気がしている 俺のやれることってこれなんだといまはわかる

俺の呟き

俺が認識・意識するのは元素というものは学習ではなく 教養であるという部分なのかもしれない

これも俺の呟き


最近になって自分が本当に欲しいものとか、自分が本を作る意味的なことを、“ちゃんと”、考えている。それらの記事も書いてる

振り返ると、本当に自分って、自分として生きることができなかったんだな〜とか、闇が深いなあとか、作家として全然だったなあとか反省とかはあるんだが

九嶋さんって、何伝えたいの?何やりたいの?

が、本当に薄っぺらだったんだな、ということがよく理解した。


やりたいことをやろうとはしていた


元々から、俺は元素を「学べるもの」にしたくないということはずっと言っていて、活動初期から「俺のサークル方針は“学べない元素擬人化”です」と言っていた。

でもそれは、本当に学べないという意味ではなく、学ぶことを意識した上で元素を見るのではなく、身近な隣人、そばにいる世界に対して覚えるとか暗記とかそういういかにもなテスト対策のだけのために元素を見てほしくなかったという根底があった。

この記事を書いたときもそう。結局は同じことを言っている。ただ、数年前のこの記事を書いたときの俺は、

元素って学ぶもの

ということに思いっきり噛み付くことができなかった、気がしている。
学ぶもの、という認識を否定したいわけではない。ただ、俺がイベントに出る度に求められる「そういうかたち」に対しての違和感だけは強く、でも、どう言葉にすれば俺が認識している元素への価値観が伝わるかがわからなかった、とも言える。
言葉にすれば、単純な否定にしか繋がらず、説得力がないことを自覚していたともいえる。

そこからやっと最近になって、九嶋のやろうとしていることがはっきりと言語化できるようになってきた気がする。なんとなく嫌だ、なんとなく好きだ、の積み重ねは言語化に繋がっているのだと思える。


「元素」というコンテンツから、「九嶋の元素」のコンテンツへ

俺は勘違いというか、当たり前のことをすっぽ抜けていたんだが、俺は作家であること、俺は、俺であるということ。

わかってはいたが、「擬人化」というものと「擬人化創作」というものの違いにまず引っかかっていたんだと思う。

「擬人化」と「擬人化創作」

俺個人の意見だが、これは違うものだと思っている。
同じことをやってはいるが、擬人化という部分で止めることと、擬人化をした上で創作を入れ込むことは違うものだと思っている。

俺は知識に忠実でありたい気持ち、劣等感から「正しさ」に縋るしかない弱い気持ちから擬人化、という部分しかできなかった。
それが、俺の求められていることだと思っていたのだ。

だから、自分の擬人化に対して自分の好みを入れることがあまりできてなかったし、誰かから見てOKを貰えるような擬人化を目指していたんだろうし、やはり正しさばかりを気にしていたんだと振り返れる。


作家であることを自覚できたこと、自己肯定感の高まり、自分の世界を愛すること

ここ最近で、

  • 作家ということを自覚した

  • 一気に自己肯定感が上がった

  • 自我ができた

という出来事が起きている。2023年9月のイベントからきっかけをいただき、そこから一気に変化してきた。
自分自身、自己肯定感があまりにも無さすぎるしメンヘラ的思考の本当にダメダメ闇の生き物なんだが、認知の歪みの自覚→修正というものを、俺は同人活動で修正してきた。俺にとって同人活動こそが認知行動療法だったと思っている。

同人活動は本当に、やってみたくて始めたことだった。
恥ずかしながら劣等感からの自分の誇示でもあったし、単純に本を作ってみたいとか興味と好奇心で始めたことだった。
元素を好き、だということさえ認めてほしかったと振り返れる。そんなの、誰も疑うわけがないのに、俺はまずその部分から認められたかった。

初めの頃は自己肯定感の低さから、褒められても喜ぶことができなかったし、鬱の典型的な認知の歪みで「頑張れ」と言われたり応援されると、現状の自分ではダメだからもっと頑張らないといけない、と思い込み、体調を崩すまで奮闘したこともある。

それでもやめなかったのはやっぱり好きだったからなんだと思う。
元素がまず好きなのは当然として、印刷物についてのこと、イベントの熱気や自分を責めたりしつつも、結局は求められることの喜び。自己肯定感の低い人間は、認知も歪んでいるのでアンバランスな思考がある。
褒められてもしんどいが、求められることは嬉しく、グルグルの整理整頓のならない思考と欲求に苛まれながらも、楽しいもあってやめられない。まだまだだと自覚もあるからこそ、自分が本当に欲しいものを作れない不満もあったからこそやめられなかったのも大いにある。

何年もかけて自分の認知と向き合ってきた。

汚い欲求や、嫉妬、認めたくない感情もたくさん抱いてきたが、それら全てと向き合い、自分の課題として消化してきたからか、現在も季節で体調不良などは起きてしまうが、以前のような激しい怒り、嫉妬みたいなものはすっかりおとなしくなったと思っている。もちろん、いきものなので、自分を無闇矢鱈に責めたりと未熟な面はまだまだあるが……

ただ、ここ最近でしっかり自我ができたことが何よりも大きな出来事だったと思う。
何かのドラマで「自分自身の中に芯を持て」というセリフがあり、それがずっと残っていて、いつも意識していたことでもあるが、やっとその芯というものができてきて、他人軸に譲らず、かたくなってきたのだとも思う。

「九嶋の元素」

何年もかけて、やっと自分の作品を作り始めた、とさえ思える。

俺は、俺であるということ。
他人と違うこと。
そんな違う自分を、自我を認めて否定しないこと。

他者との境界が曖昧なところもあるせいか、侵略・過干渉に俺はとてつもなく弱い。ちょっとした連絡でも自分の世界に踏み込まれた感覚に陥り、返信が出来ないこともたくさんある。(そのせいで俺へのLINEはほぼ返ってこないと思ってくれてもいい)

中学生の頃から過敏なせいで、保健室に引きこもりだった。
まず、「変わってるね」とよく言われてしまう自分の否定。他人とは違うことを誇りたい反面、馴染めない歪な劣等感だけがあった。
教室にいることができなかった。感情的なこと、諍い、いじめ。そういう他人の悪意、目線、表情を自分に向いてないとわかっていてもダメで、気持ち悪くなってしまって保健室に逃げていた。
その度に保健室の先生に、「自分の壁を作れるようになろうね」と言われ、なかなかできずにこの年齢……
今でもこの過敏さのせいでニュースは見れないし、Twitterで言い争う引用リプも苦しくなって見れない。

自我ができたことで、他人は他人、としてこれから強くなれるかは不明だが。この過敏が少しでも楽になるかはわからないが。


自分の作るものが、自分の世界であるということ。
他人と違っていいこと。
自分の認知、認識、思考、趣味。それらを複合させて心の奥底から「自分」として楽しんでいいこと。

今わかることが、むしろこれこそが作家というものな気がするのに、そんな当然なことさえわからずに右往左往してきたのか、と笑えてくるのだが。

このことをしっかりと考えて、実行に移せるようになり、「九嶋の考える最強の元素」として作れるようになってきた。本当、ここまで長かったと思える。


やっと、自分がやりたいことがわかってきて未来が見え放題ということ

自分が作りたいものを作ること。需要?知らんがな。俺が、俺だから作れるというものの、価値。

元素だったら、誰だっていいんだ。そりゃ、そう。元素というもの、元素擬人化というものが欲しいなら、正直誰だって良い話だった。そこ自体に、俺の価値はない。

俺だから作れること、俺だから表現できること、俺だからかけるもの。それこそが作家というもの。
自覚ができてから数ヶ月。作家として立ち上がったのが、まさしく2024年6月というものだろう。

俺が考え、俺が好み、俺が幸せになる。
そこをお裾分けできるだけ。

何度も書くが、俺の思考というもの自体に正しさはない。考えに、正しさもクソもない。

元ネタがあるのに、正しさがないなんて。そんなの創作にしてご都合主義だね。と以前の俺は自分の作品についてそう思っていた。他人軸。揚げ足を取られたくなかっただけの弱い自分だ。
そんなの結構、創作で何が悪いのか。ご都合主義が何がダメなのか。気に食わないなら、あなたが描け。解釈違いは創作の原動力でもある。

「九嶋さんが作るから好きなんだよ」
そう言わせられなくて何が作家か。


教養としての元素


元素ではなくて、知識とか学習ではなくて、隣人として世界の傍にいる存在として知覚するために俺は本を作るのであって、学習なんぞ俺がやる役割ではないと 改めて納得して考えてた いくら元素というものが学習として認識されようと、生きる限り隣にいるのは元素であるということが 宗教的な側面があったとしても俺はそう認識し続けるし それでこそ作りたいものが作れる気がしている 俺のやれることってこれなんだといまはわかる

俺が認識・意識するのは元素というものは学習ではなく 教養であるという部分なのかもしれない


これは上記で書いていた文章の繰り返し。

俺は、こう考える。それができた。
俺はこれが原動力、これで作品を作る。ある種、これが九嶋にとってのガソリンである。作る意味である。

俺が作品を通じて伝えたいことの芯である。

今までは芯もなく、伝えたいことといえば元素が可愛いとか、好きとか、みて欲しいとか、元素って隣にいて…をボソボソと。そこからここまではっきりしてきた。成長だと思える。

前回の記事では、標本屋さんなりたいとかも言ったけども、今回に伝えたいのは表現方法のかたちではなく、芯である。ある種、本願。

元素というものを、ある種学ぶということでもあるが、俺としての姿勢は異なるものだと思っている。そして、紳士淑女たる方々の嗜み的な、紅茶のお供になるような美しさがあれば良いとも思っているから、これもまた俺の価値観ともいえよう。

実際、作る本も紅茶や砂糖菓子に合うような本を作りたいと思っている。購入者はもちろん誰でも良いのだけれども。


表現方法はたくさんある。まだまだやりたいことはたくさんあるし、途中の漫画について結構褒められててデレデレしてるので完成もさせたい。標本や紅茶や砂糖菓子やらいうが、そういう感じの少年漫画だってかくつもりだ。


俺がやること、方向性。よーく自覚した、言葉にできた、あとはやるだけ。

これからも素直にやりたいことを、やれることを、ただただ全力でやりたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?