「なんとなく」でいい
俺はとにかく言語化が苦手だ。
自分の考えていることを、言葉、としてかたちにするのがとてつもなく苦手。
好きなことを語ることも、自分の世界について語るときも、「ええっと…」と詰まってしまって何もかもが日本語として言葉に出せない。もちろん他言語でも無理。
自分の気持ちに疎いのもある。自分の我というものは強烈に強いくせに、主張は弱い。ものすごくデカいくせに声が小さいいきもの、みたいな。
今までの記事でもかいてきたけど、自分というものがなんなのかさえよくわからなくて、やっと自我が出てきて、自分の方向性ってものがやっと、やっと見えてきて
その過程を振り返るログと、なんとなくでよかったんだ、ということを改めてかきたいと思う。そういう日記。
繰り返してるな〜〜という、2023年9月からの俺
noteにある、ひとりごとの連続記事を読み返すと、前回の記事とも似たことが書いてあるな、と思う。
「俺はこれでいい」→「他人軸に戻る」→「これが俺」→「他人軸に戻る」を何度か繰り返しているな、と。
正直書いてあることも似たり寄ったり。
6月第二週の時の個人的な日記にも「自分の本を作る意味とは」とか。(前回の記事でも書いてるんだが)
でも、今現在、2024/06/13には自分が本を作る意味はわかるし、自分のままでいれていると思う。ということは、また何かまだ未解決な部分は他人軸になってしまい、それを自分軸に戻す作業がたんまりとあるということでもあるんだろうと、思う。
そのくらい、他人軸からの、他人の価値観で生きてきた呪いは強烈なんだと思う。根深くて、結構やばいやつ。
「それは俺の価値ではない」をまず気づくところから始まり、「では自分の価値は何か」と自分に問い、「自分はこうだと思う」に書き換えていく作業。
かなりの労力を使うし、まず自覚するという行為が難関だ。
その、自覚するという行為に近いのがタイトルでもある「なんとなく」なのかもしれないと気づいた。
なんとなく、嫌だな、の小さな声に耳を傾けてあげること
今まで自分の気持ちは押し潰して押し殺してきたし、無視してきた。
そのため俺は俺の本音を聞き取るちからも小さい。
そして言語化が苦手だからこそ、「言語化しなければならない」というべき思考もあった。他人に伝えるには、言葉にしないと。納得するためには言葉としておかないと。
だが、そういう難しくてめんどくさいことは、頑張る必要がないと気づいた。
「なんとなく、嫌だな」
一瞬思ったり、一瞬だけ感じる、ちっちゃくて、ちょっとした感覚。足の裏になんか砂粒でもついたかも、的なぐらい些細なこと。
それに、素直になるだけだった。
なんとなく、嫌。そこに今までは何かと理由や何かしらの根拠を無理やりくっつけて行動していた。頑張らないと、人間らしく振る舞わないと、社会的に振る舞わないと、迷惑かけないようにしないと、なんてくっつけていてから、本音は「嫌」なのだから、結局迷惑をかけるルートばかりだった気がする。
なんとなく、を言語化する必要はなかった。
なんとなく嫌、なんだから、自分の気持ちは「嫌」でOK。
なんとなく好きなら、なんとなく好きでいい。それだけでよかった。
前回の記事でも書いたけど、「なんか良い」という直感で覚えている自分の感覚は、そこに理由なんか何も要らなくて、なんか良いで、終わらせて良いものなんだと改めて考えている。
自分のみてる世界からものづくりを素直にするだけのこと
作家とは、根拠のある作業をする人たちではないのかもしれない。文で書いてみると、そりゃ、そう、って感覚なんだが。
自分が好き!自分がやめられない!
自分の好きで、好きで、ただただかたちにしました!!!!
それだけなんだと思ってる。
好きに理由はないというけど、本当そう。理由だなんだより、できた!可愛い!最高!幸せ!!で充分なんだと思う。
そこに正しさとかは当然無い。もちろん、需要だったり人の好き嫌いはあれど、自分の世界の表現に正しさなんか、あるわけがない。
俺は擬人化創作をしているわけなんだが、擬人化する元ネタへのリスペクトはもちろんであるものの、
自分の世界からみている大好きなもの、をただただ正直に表現することもある意味のリスペクトである気がしている。こんな当然なことさえ気づけなかった。
その、擬人化の元ネタに忠実であることだけがリスペクトだと思い込むしかなかったともいえる。自信がなかったから、余計に。
今の目標は元素の標本屋さん
俺は元素擬人化創作と、元素グッズを作ってる作家であるが、自分が欲しいもの、やりたいことというのは「標本」である、ということがよくわかってきた。
タイトルに標本と付けながらも、標本らしいことはあまりできてなかったのだが、自分が部屋に飾りたいもの、や、欲しいものは全て「標本」というかたちである。
今までは他人軸が俺のCPUの80%ぐらいをくっていたので、自分の気持ちも考えも考える余裕がなかったんだなあ、と思う。
標本的なものを上記の写真のように作ったりしていたんだが、これを作った時の俺は自分が「標本が欲しい!」という感覚がかなり薄かった気がしている。
今までも、元素の標本的なイラストもかいていたのに…
で、今になって無意識で自分の好きを生み出すのではなく、意識的に自分の好きを生み出している現在。ヘリウムの標本のイラストはある種、原点でもあり、原点回帰でもある気がしている。
自分がやりたいこと、自分が欲しいものがこんなにもはっきり手に取るようにわかるということが新鮮すぎて
何より、それを作れる自分がものすごく嬉しいので
なんとなく、いいな、の感覚を手放さないようにものづくりをしたいと思う。
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