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編集後記『サイカイアトリー・コンプレックス 実学としての臨床』

医学領域専門書出版社の金芳堂です。

このマガジンでは、新刊・好評書を中心に、弊社編集担当が本の概要と見どころ、裏話をご紹介し、その本のサンプルとして立ち読みいただけるようにアップしていきたいと考えております。

どの本も、著者と編集担当がタッグを組んで作り上げた、渾身の一冊です。この「編集後記」を読んで、少しでも身近に感じていただき、末永くご愛用いただければ嬉しいです。

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■書誌情報

『サイカイアトリー・コンプレックス 実学としての臨床』
著:尾久守侑(慶應義塾大学医学部精神神経科学教室)
A5変形判・196頁 | 定価:本体3,400円+税
ISBN:978-4-7653-1874-7
取次店搬入日:2021年08月11日(水)

高齢者の精神症状と神経疾患の併存状況、鑑別に難しい診療について紐解く

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■編集後記

梅雨から8月にかけて、京都のスーパーでは骨切りされた太い鱧がとてもお手頃に並んでいて、みかけると思わず買ってしまうAです。さっとお湯に入れて冷やすだけなのに美味しいのが鱧の素晴らしいところですね。

2021年8月11日に『サイカイアトリー・コンプレックス 実学としての臨床』を出版します。読者は内科の先生と精神科の研修医向けです。でも高齢者を診ている先生全てにおすすめだと思います!

まずは題名を見てみましょう。あんまり医学書っぽくない? ぽい? コンプレックスって多義的ですよね。どういう意味なんでしょうか。葛藤? 劣等感? 複雑性? 苦手意識? 著者にとって? 読者にとって? それとも疾患自体?

「わたし、気になります!」というかた、とくに購入を悩んでいるかたは、書店で実際に持って頁を開いてみてください。あなたの手がA5変形の意味を、これはじっくり腰を据えて読みたい!と感じてくれるはずです。

とはいえ、まずは「はしがき」を読んでそのヒントを探っていきましょう。

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■はしがき

「精神神経領域の、高齢者のマルチモビディティ」というのが、最初に設定されたテーマだった。高齢者は多疾患が併存することが多く、診療が難渋することが多いため、近年プライマリケア領域でこのマルチモビディティの研究が進んでいるらしい。「らしい」と述べたのはあまりよく知らないからで、この学問についても詳しくないし、高齢者のマルチモビディティの臨床研究にも一切携わっていない。しかし「多疾患が併存し臨床判断が容易ではない高齢者診療」というのは私の日常であり、これを読んでいる医師ないしは医療従事者の日常でもあるのではないだろうか。

「学問」ないしは「研究」という視座から複雑な事象を扱うとき、まず行うべきことは定式化のための現象の単純化である。これをしないと研究にならない。しかし、そのようにして得たアウトカムを臨床にもう一度返すとき、果たしてこの現場で、今この瞬間にそのエビデンスはどこまで適用可能なのかという判断を迫られることになる。もちろん、そのまま適用できることもあるだろうし、そうではないこともある。高齢者診療のような混沌とした問題が入り組む現場では特に、エビデンスの埒外で判断しないとならないことのほうが、ひょっとして多いのではないかと思う。

本書では、「実学」という視座から高齢者診療を考えてみたい。医学は自然科学なので、科学の法則が意思決定の根拠になるわけだが、その科学現象たる疾患を取り巻く構造物は医者であり患者であり看護師であり、何にせよ生身の人間である。そこには不安に駆られた患者もいれば、寝不足により思考能力低下をきたした医師もいれば、息子の家庭内暴力にもやもやしながら働く病棟スタッフもいるわけであり、これらがそれぞれ勝手に意思を持って動き、相互作用を及ぼし合って現場というものは絶えず動いている。それを前提として、さらに患者には多疾患が併存し、ひどく混み合った病態を形成しているという実態が、高齢者の臨床である。

このような変数が極端に多い場で行われる一挙手一投足に、リニアに得られる解は存在しておらず、一つ一つの問題をおぼろげな部分を残しつつも何とか認識し、本当にこれでよいのかと迷いながら臨床判断を下していくしかないというのが、少なくとも私の目に映っている現実である。しかし、どこか最近の傾向として、エビデンスや、「〇〇理論」「〇〇モデル」といった一つの整った鋳型を用いることで、この複雑系をコントロール可能と考える態度が猖獗を極めているように思う。

私にはこのような傾向が、複雑なことを複雑なままで扱わねばならない不安への防衛にみえなくもない。もちろんその鋳型には、全体を俯瞰する見取り図として作用するポジティブな側面もあることはよくわかっている。しかし、その鋳型からはみ出した部分をゴミとして切り捨ててしまうことで起きてくるネガティブな事象にどれくらいの人が目を向けているのだろうか。

本書は、実際に現場でどう考えどう動くかということについて、極めて個人的な考えを記した。個人的な考えというのは曲者で、極端なことになるとトンデモ医療とか、カルトみたいになってしまう危険性をはらんでいるのだが、そこは私の医師としてのまともさというか、常識の力が問われていると思う。細かい部分で、読者と考えが一致しないということは、これはたくさんあるだろう。あくまで私はこう考えたというだけで、それが真理と言っているわけではないので、どうかご容赦いただきたい。

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お気づきでしょうか? 編集Aのアサハカな緩い狙い――『精神症状から身体疾患を見抜く』『器質か心因か』をものにした尾久先生なら、高齢者のマルチモビディティ、とくに神経疾患と精神症状の合併状況をテーマにした書籍を書いていくれるというもの――に対し、個々の患者さんが千差万別といえるほど多彩な表現をしめす多疾患併存を、症例ベースにどうこうというよりも、かまえ方や視座の方で書きますというお返事なわけです。

もちろんマルモはいやです、ということではなくて、プライマリ・ケア領域の臨床研究での進展とは違う形で、尾久先生が国立国際医療研究センター病院や慶應義塾大学病院、国立病院機構下総精神医療センターなどでの指導や経験を経て、今実際に診療しているときに大事にしていることを書いていただきました。

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構成は以下のようになっています。

本書は3つの構成となっている。Part1「診療感覚を練磨する」では、私が最も携わる機会の多い精神神経領域や内科領域の高齢者のケースをもとに、無自覚でいることで陥りやすい視点や、個人の中に診療感覚を育てていくことについて考えを記した。Part2「表現形を読み解く」では、「診断」という鋳型ではなく「見立て」という視点を用いて、患者の表現形をどのように読み解いていくかということについて記した。本書の肝はこの表現形の立式にあると言ってよい。難しいことだとは思うのだが、表現形を見立てることができれば、非精神科医であっても、“精神科的”な患者を「精神科の診断基準」を使わずして見立てることができると思っている。Part3「実学としての治療」では、内科では必須の技術と言ってよい除反応や、治療抵抗性の“精神科的”な患者への介入方法、さらに薬を介した関わりの技術について記した。

どこかの教授でも臨床の大家でもない、ただの駆け出しの臨床医である私が、個の実感以外に何一つ裏打ちのない診療感覚を公開することなど恐怖でないはずがないが、この『サイカイアトリー・コンプレックス 実学としての臨床』という書名を持つ本書が、臨床を担う実務家一人一人の書棚で、速効性に遅効性に燃え始めることを、少なくとも今この瞬間は揺らぎなく信じている。

2021年7月
尾久守侑

コンプレックスの意味、まず一つ目は疾患の複雑性ということでよいようです。でもそれだけではありません。本書の読みどころは、診療のポイントがわかるようになるだけでなく、精神症状をみることにまつわる様々なコンプレックスが語られることにもあるんです。ぜひ通読してくださいね。

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■目次

次は目次です。上記はしがきに気になる言葉があったと思います。「診療感覚・表現型・実学」。あまり使わない言葉だと思いますが、そのなかのchapterを見てみましょう。

Part 1 診療感覚を練磨する
Introduction
Chapter 1 仮説に居つかない
Chapter 2 未知を未知で説明しない
Chapter 3 遅れるトリアージ感覚
Chapter 4 境界線を育てる
Chapter 5 曇らない目はない

Part 2 表現形を読み解く
Introduction
Chapter 6 診断という虚像
Chapter 7 表現のプリズム
Chapter 8 「脆弱性+打撃→反応」の立式
Chapter 9 多重の嗅ぎ取り

Part 3 実学としての治療
Introduction
Chapter 10 除反応とファントム
Chapter 11 システム崩し
Chapter 12 鞘の内

覚書

興味掻き立てられますね! これは読むしかありません。でもどうしても中身をみたいという人のためにchapter6とchapter10、ほんの少しお見せします。

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■中身チラ見せ

chapter 1の導入箇所というよりドーンと中核をお見せします。

Part 2 表現形を読み解く

 Introduction

患者の表現形というのは、病気のみが規定しているわけではありません。5年前に前頭葉に脳出血を起こした、小さい頃から変わり者だった高齢者が、アルコールを大量に飲んだ状態で急な腹痛を起こして救急外来に運ばれてきたとします。そのとき患者の言動というのは「変わり者」「前頭葉障害」「酩酊」「急な腹痛」のすべての要素が大小混じり合った表現形を作ります。これらが組み合わさっているのだな、と考えればよく理解できたとしても、たいていは「表現形」というものには注意が払われないので、「変な人→でも痛がっている→検査異常なし→精神科」とか「変な人→酔っ払い→帰宅」とか「変な人→痛がっている→膵炎→入院→変なので精神科コンサルト」とかこういう直列の思考を辿るのが普通です。これは精神科でも全く同じで、諸要素が組み合わさって表現形が形作られているということに無自覚で、〇〇か? それとも□□か? のようにどちらかに決めようとする姿勢がよくみられます。「ステロイド精神病か? それとも全身性エリテマトーデス(SLE)の中枢神経症状か?」などといった議論がまさにそれで、どちらかの要素が強いということはあるにせよ、両方が混ざって現在の表現形をなしているかもしれないという発想がそもそもない。

これは「診断」という行為が作ってきた有害事象だと思います。特に診療科によっては診断が必要な場面はあるにせよ、「診断」が認識のうちで絶対的なものになってしまっていると、この「組み合わせ」という発想がしづらくなると思います。したとしても重複診断のような形になり、独立したプロブレムのように扱われてしまう。

Part 2 では、「治療のための見立て」を行うことを目的とした表現形の読み解きについて考えていきたいと思います。主に精神神経領域の半仮想事例から考えていきましたが、私は内科疾患もこのようなプロセスで思考していますし、どの診療科にも汎化できる内容だと思います。

 Chapter 6 診断という虚像

このPart のIntroduction で、「診断」ではなく、「治療のための見立て」をすることが大事だという話を最初にしました。まずはこの点について、私の考えていることを掘り下げてみたいと思います。

精神疾患に限らず、疾患というものは、あるいはそもそも自然界で起こる現象というものは、先にそういう現象があり、後から人間が同じようなグループをまとめて恣意的に名前をつけたものです。

この現象をグループ化するときに軸となる一つはメカニズムです。メカニズムの同じものでまとめる。肺動脈が詰まる病気を肺塞栓といったり、あるいは骨が折れることを骨折といいますね。これは厳然たる真実というか、ただ現象を名前にしただけです。木が倒れることを倒木といったり、雷が落ちることを落雷というのと同じです。

メカニズムによる分類はもう一つあります。例えば糖尿病といったとき、現在の医学においては、これは尿に糖が出るものを糖尿病といっているわけではなく、インスリンが血糖を細胞内に取り込むという正常な生理機能が障害される病態のことをいいます。しかし、このこと自体は目には見えないので、糖尿病の原因となりうる、ないしは糖尿病になった結果起こるメカニズムの異常の一部を、生体からのサンプル(これをバイオマーカーといいますね)を採取し、いくつかの異常所見(血糖値が高いとか、HbA1cが高いとか)を組み合わせることで糖尿病という病気が体内で発生しているだろうと予測するわけです。当然ですが、HbA1c 6.5%以上で空腹時血糖が 126mg/dL 以上だと糖尿病などというのは、これは人が学問的な見地から勝手に決めたことです。6.4%だったらそういう現象が存在しないというわけではない。自然界がデジタルになっているはずがないのですね。こういう病気は「詰まっているか、詰まっていないか」とか「折れているか、折れていないか」ということにより病気かどうかが決まるものではないので、グラデーションになっているわけです。まずこの普通の事実を再認識します。

さて、精神疾患というのはどうでしょうか。精神疾患は、目に見えないというのもそうですし、バイオマーカーというものもありません。どのようにグループ分けをしているかというと、表現形の似たものをグループにしているわけです。疾患の表現形というのは、当然人間の言動になります。表現形だけで疾患を分類するというのはとてつもなく難しいことです。採血やCTはおろか、腹部診察もできない条件で腹痛の人をどう診察するか、考えてもらえればよくわかりますね。「腹膜炎ならこんなに七転八倒しないだろう」「2か月前から痛いなら虫垂炎ではないな」みたいな所見をめちゃくちゃたくさん集めて診断するのが精神疾患なわけです。

そうすると、診療する人によって診断の精度が大きく変わります。名人であれば会話せずとも空気が揺らいだだけで今入室しようとしている患者の診断を当てるみたいなことはできるでしょうし、わからない医者は何時間問診をしてもわからないみたいなことが発生する。これはでも、内科でも同じですね。検査は一応するけどもう診断はとうにわかっているなどということはいくらでもある。精神科で困るのは、検査がないので、名人は別にいいけれども、いくら話をしてもわからないタイプの人に精神科医が務まらないということです。そうすると「名人の定義は?」「誰が見ても同じ診断にならなければおかしいだろ!」などという人が当然出てくる。医学は自然科学を根拠にしていますが、人間を扱うのでその実際的扱いに技能の差が出るのは当たり前ですが、そういうものがあってはいけないらしい。

そこで二つの方向性が発生します。一つは、糖尿病のように病態整理を突き止めたり、HbA1cのようなメカニズムの一部を可視化できるようなマーカーを見つけようとする方向です。これはどう考えても必要な動きです。精神疾患はその辺があまりに不明すぎるので、もう少しクリアにしたいのは当然でしょう。

そしてもう一方は、精神疾患の診断基準を定める、という方向性です。この方向性の重要な点は、「これとこれとこの症状がある人を統合失調症とする」などと基準があることで、評価する人の技能によらず同じ診断ができることです。これにより、前述の生物学的な病態を解明するための臨床研究を行うことができるようになります。一方で、この基準の決め方は恣意的なわけです。しかも基準のなかにバイオマーカーを含まないので、糖尿病の診断よりもさらにあやふやです。統合失調症という病気があるとして、診断基準を満たすものだけが統合失調症ではないし、統合失調症ではないものも診断基準を満たしてしまうということがあるでしょう。そういう臨床的限界が存在しています。

仮に、統合失調症という病気のメカニズムがわかり、Aというバイオマーカーが見つかったとしましょう。診断基準に「Aが15以上のもの」という項目が加わったとして、A が14 であるものも統合失調症の“風味”がゼロであるとはいえないですよね。糖尿病と同じです。それから、「Aが15以上でBが30以上のものを統合失調症とする」と定めたとして、それ以外のものは統合失調症じゃないかというと、定義上はそうなるのかもしれませんが、臨床上は同じ症状を呈して同じ治療が奏効したりすることがあり得るわけです。リウマチ性多発筋痛症は抗CCP抗体が陰性ですが、関節リウマチ(抗CCP抗体陽性)と同じ治療を要する人がいたりするのと同じですね。臨床的グラデーションです。何とかhPa以上の熱帯低気圧を「台風」と呼ぶとして、でも何とかhPaを下回っていても台風の“風味”があるわけです。何も起きていないわけではない。この「何も起きていないわけではない」という点、自然現象にはグラデーションがある、という点を、時に診断基準というものは無視します。アナログな自然現象をあたかもデジタルであるかのように見せる。

私は診断というのは「風味」でするのが真実に近いと思います。これは内科疾患だろうが精神疾患だろうが同じです。診断基準などというものは、自然現象で集合しているある塊に外側からマジックで線を囲ったものにすぎません。精神疾患のバイオマーカーは、仮に見つかっても万能ではないことは自明ですね。大事なのは検査前確率を高めることです。

とある病名をつけたとき、自分は一体その疾患の何を見て、何を見ていないのか、ということを自覚することが大事だと思います。

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これは「診断」という行為が作ってきた有害事象だと思います。

強い一文が入っています。

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次、chapter 10ですね。除反応というのは精神分析の言葉です。ではファントムって?

●Part 3 実学としての治療

 Chapter 10 除反応とファントム

まずは最も身体医学とも結びつきの強い治療介入である「除反応」と「ファントム」について話をしていきたいと思います。立式は最後に示しますが、まずはもう少し直感的に理解しやすいような心身相関の話からしましょう。

精神科医という「心根」を持って内科外来をやっていると、だんだん、すべての内科疾患は心身症なんじゃないかという気になってきます。あながち間違いではないと思うのですが、それくらい身体と精神というのは相互作用を及ぼし合っていて、精神が侵されれば身体に症状が出るし、身体が侵されれば精神の症状も出るということを、理論的にではなく肌感覚で日々実感しています。

ある身体症状をみたとき、身体医学を専門とする臨床医は普通、「身体症状の原因となっている疾患を特定する(診断)」→「その疾患に対して行うべき治療を行う」という順に思考するでしょう。このように考えると、その身体症状が自律神経由来のときは、たいてい治療に対応する診断名がつかないので、「不定愁訴」といったカテゴリーに分類され、「身体医学の範疇で対処不能のもの」「心療内科・精神科の診断がつくもの」「帰宅」「不定愁訴にみえる身体疾患を見逃すな」的な発想に思考が流れがちです。

私がここで提案してみたいのは、以下のような発想です。つまり、ある患者をみたら、まず「どれがメインの疾患による症状で、どれがその最初の症状に反応して出現した症状か」を見分けるという発想です。

ある苦痛を伴う症状があると、心理的加重といって、心理的・身体的に反応が起こりやすくなります。イメージしづらければ、風邪をひいたときのことを考えればいいですが、風邪をひいてしんどいと、怒りっぽくなったりする人がいますね。風邪を実際にひかなくても、ウイルスに感染したかもしれないと思って心配になると、喉が変なような気がしたり、胸が痛いような気がしたりする人がいますよね。図示すると図5のような感じです。

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この①に該当するのは、必ずしも身体疾患による身体症状だけではありません。「空腹」といった疾患由来ではない身体感覚や、「幻聴がうるさい」などといった精神症状、「感染症が不安」といった普通の心配などすべてが該当し得ます。この、ベースとなっている症状を特定することが大事です。

このベースとなる①の症状がとても苦痛で強いとき、ないしは、大したことのない症状でも意識を侵す病気に由来していたり、脳に器質的・機能的に脆弱性があったりするとき、②の症状が出現します。②の症状にも軽重があり、精神症状(とくくれる症状)であれば単に「怒りっぽくなる」といった心理的な変化から、昏迷といった明らかな精神症状まで起こりえます。身体症状であれば、「口の中や喉の違和感」「手足のしびれ」「めまい感」「頭痛」「心窩部痛」「腹痛」「胸痛」「息苦しさ」「下痢」「嘔気」といったいわゆる不定愁訴と呼ばれる自律神経症状から、「失声」「両下肢麻痺」「歩行困難」「けいれん発作」「足がガクッとなる」といった神経疾患を擬態する症状などが出現します。

重要なのは、精神科だろうが内科だろうが、常にどれが①でどれが②かという目で診療を行うことです。①と②を特定することで、素早い治療導入が望めます。②なんてほとんどいないだろ、とお思いになるかもしれませんが、こういう視点から内科外来をやっていると、ほとんど全員に、対処する必要があるかどうかは別として②が存在していることがみてとれると思っています。

以下にこの図式に関する二つの治療概念を述べます。

 除反応

②の症状を取り除くことを除反応と呼びます。除反応というと、語ることでカタルシスを得る精神療法を想起する人もいると思いますが、ここではこのような定義で使わせてください。

除反応は、加重した分の症状を治療すること、と言い換えられます。すべての患者に必要な手技ではありません。何だそれは精神科の仕事だろうと思うかもしれませんが、身体医学の現場でも除反応を行うことが有効な場面はあります。

一つには、診断し、治療すべき①の症状がよりクリアにわかる可能性があることです。②の症状として怒りっぽくなっていた場合、医療者側が気分を害し、患者と口論になり時間をロスする可能性があります(「検査は絶対にしません!」とか怒って事態をややこしくしている医師をよく見ますね。全体のタイムコントロールからすればバランスを欠いているようにも見えます)。さらに、除反応を行わないままだと、Chap.6 で話したような表現の屈折が起きている可能性があります。②の症状として「退行」している人がしょっちゅういますが、こういう人が「先生、もう痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて、お腹がずっと痛いです」などと表現し、本当は間欠痛なのに持続痛的表現をする患者を誰でも見たことがあるでしょう。落ち着けば普通に表現できる可能性があります。

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ファントム(尾久先生の造語)については本を読んでください!(続きは本で)

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■終わりに

今回の「編集後記」、いかがでしたでしょうか。このマガジンでは、金芳堂から発売されている新刊・好評書を中心に、弊社編集担当が本の概要と見どころ、裏話をご紹介していきます。

是非ともマガジンをフォローいただき、少しでも医学書を身近に感じていただければ嬉しいです。

それでは、次回の更新をお楽しみに!

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