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編集後記『感染症疫学のための データ分析入門』

医学領域専門書出版社の金芳堂です。

このマガジンでは、新刊・好評書を中心に、弊社編集担当が本の概要と見どころ、裏話をご紹介し、その本のサンプルとして立ち読みいただけるようにアップしていきたいと考えております。

どの本も、著者と編集担当がタッグを組んで作り上げた、渾身の一冊です。この「編集後記」を読んで、少しでも身近に感じていただき、末永くご愛用いただければ嬉しいです。

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■書誌情報

『感染症疫学のための データ分析入門』
編著:西浦博(京都大学医学研究科環境衛生学教授)
A5判・240頁 | 定価:4,180円(本体3,800円+税)
ISBN:978-4-7653-1882-2
取次店搬入日:2021年10月08日(金)

感染症の患者数はどのように推移するのか。感染症疫学は何を根拠にどのように考えるのかを明らかにする

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■編集後記

金芳堂に至る道は険しく急峻な坂道であり、通勤のためには必ずそれを踏破しなければならないAです。

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(通勤写真,あるいは西浦研から金芳堂への最短ルートの一つ)

さて、10月8日に西浦博先生編著『感染症疫学のための データ分析入門』が発売されます。思えば昨年7月、第2波のピーク頃に京都大学に赴任されることが明らかになった西浦先生に連絡をとったのがこの企画のスタートでした。

その時打診した企画内容は、(ピッピィー社外秘です)で、だいぶアドバンスドなものだったのですが、ひとまず第2波が収まるまで打ち合わせは延期。ようやく10月に『データ分析入門』としての目次案をもらい、執筆をはじめていただきました。

しかし校了するまでの間、コロナ第3波、第4波、第5波(これを執筆している時点で終息がみえてきました。やっと!)と大きな山が続き、専門家会議と各地の感染対策のための資料を用意しなければならない西浦先生と各章執筆の先生、そしてわたしは予定したスケジュールどおりとはいかない日々がやってきますが、やっと発売までこぎつけました。先生方、お疲れさまでした!

「え? 感染症疫学って保健所が挙げてきた数字を数理モデルにいれてパパっと計算してモデリングするだけじゃないの? 実験がうまくいかないとか観測できないとかないでしょう。普通に原稿執筆も校正もできるんでは?」と思われたあなたこそ本書を読んでほしい。

感染症疫学の実践現場の息遣いがこの本から伝わるはずです。どのようにサーベイをし、上がってきた報告をどのように処理し、そしてどうやって数少ないデータから精度良く当てはまりのよいプロジェクションを作り上げるのか。

従来の感染症疫学の教科書の総論的なところから、一歩現場に踏み込んだ教科書が誕生しました。レベル的には工学部、理学部の学部学生程度、社会科学の大学院生なら数学的なことも十分に理解できますし、9章数理モデル入門編の手前までなら学部問わずさほど難しくはないはずです!

コロナ後の世界において、感染症疫学者の出す予測、計算がどういったものなのか、それを知ることは一般教養と言ってもいいでしょう。ぜひこの本で感染症疫学に入門してください!

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■目次

はじめに
Chapter1 感染と感染症のメカニズムと疫学的指標
Chapter2 感染症の自然史
Chapter3 感染性と重篤度の評価
Chapter4 アウトブレイク調査:能動的サーベイランス
Chapter5 感染者割合の推定
Chapter6 予防接種の評価
Chapter7 受動的サーベイランスとそのデータ分析
Chapter8 アウトブレイクの早期検出
Chapter9 感染症数理モデル入門
Chapter10 流行のモニタリング
Chapter11 2次感染のばらつきと流行発生確率

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■序文

「感染症の予防医学は、公衆衛生学の中で最も長い歴史と実績を誇る」

これは事実である。疾病を予防するという概念は18世紀の天然痘に関する死亡統計やその後の予防接種評価において飛躍的に発展し、数ある近代の戦争の中でも感染症の予防は兵力の保持に必須であった。そのため、20世紀前半までの疫学や公衆衛生の教科書を開くと、中身のほとんどは感染症(伝染病)の制御に関するものである。私たちはその歴史に支えられており、また、その期間のおかげで感染症疫学の理論的基盤も豊富に蓄積されてきた。

しかし、20世紀後半、日本を中心に、どこかで時計が止まったかのように、ぱったりと学問の発展が停滞してしまった。高度経済成長の社会の中で多くの感染症が次第に制御され、それは専門性として尊重されなくなってきたのかも知れない。日本の近代疫学の祖である平山雄(1923~1995)の処女作「疫学」(績文堂、1958)の中身は、ほとんど氏がジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院で学んだ感染症疫学に関するものであり、その中では数理モデルにさえ詳細に触れられている。しかし、そんな平山氏でさえ1950年代の肺がんと喫煙の研究以降、癌や循環器疾患のような慢性疾患に戦いの場を移してしまった。日本の疫学の萌芽期を支えた他の書を紐解いてみても、金光正次、岡田博、甲野礼作、重松逸造、平山雄「疫学とその応用」(南山堂、1966)や阪本州弘「疫学と疫学モデル」(金芳堂、1985)の中でふんだんに感染症疫学の議論がされてきたが、脆弱な疫学研究基盤で皆が興味の対象を一気に慢性疾患へシフトし、理論に力点を置いた感染症疫学の系譜は1970年代までに確実に途絶えてしまった。

気づけば、日本では感染症の疫学は絶滅の危機にあった。1990年代や2000年代に感染症流行がなかったわけではない。HIV/AIDSの流行に続き、大阪府堺市での病原性大腸菌O-157集団発生やウシ海綿状脳症(いわゆる狂牛病)、重症急性呼吸器症候群(SARS)、高病原性鳥インフルエンザ(H5N1)、インフルエンザH1N1-2009パンデミック、ジカ熱、エボラ出血熱流行など、いくつもの流行発生の度に突発的な専門性に対するニーズが生じ、感染症疫学の見直しを迫るチャンスが多数あった。しかし、日本はそれをみすみす見逃してきた。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行で社会がぐらついてからやっと、感染症疫学の基礎知識を有するものが極めて限られていることを肌で感じさせられた。国家として感染症の危機管理を直視することができず、また、残念ながら感染症疫学者の育成不足という国策の誤りのツケを払わされることになった。

本書はそういう国内の長期間に渡る過程を深く理解していない若手研究者も含めて研究指導を行いつつ、海外で感染症疫学を学んだ西浦 博が自らの修練と教育経験に基づく入門マテリアルを書籍として纏めたものである。COVID-19が流行した時に、感染症疫学を専門とする者として国に対峙し、その領域研究者の中で最も理論的基盤を大切にする人間としては、復興から勃興に向かわせる取り組みに着手する以外に選択肢が残されていなかった。

それを受けてCOVID-19の流行中から西浦研が総力をあげて分担執筆をしたものがこの本書である。本書は京都大学大学院医学研究科の社会健康医学系専攻において専門職大学院課程(School of Public Health)コア科目「感染症疫学」の教育内容に準拠して執筆した入門書である。入門書は感染症流行データの見方を養うものであり、専門家を志す者には応用編となる数理モデルの入門書もぜひ手に取っていただきたい。

その「感染症疫学」の到達目標は以下の通りである:

1.感染症が他の疾患と比べて特別である特徴を説明することができる
2.無症候性感染の公衆衛生学的意義について述べることができる
3.感染および死亡の疫学的リスクについて分類し、記述することができる
4.集団免疫のコンセプトと疫学的検討におけるその重要性について記述できる
5.仮説検定の意味で流行の早期探知のコンセプトを述べることができる
6.予防接種の効果について分類し、記述することができる
7.アウトブレイク調査やサーベイランスの目的と実践について記述可能である

この教育マテリアルは西浦が過去10年を通じて毎年更新しながらきめ細やかに作成・更新を続けてきたものである。そのため、専門家の登竜門を潜った若手研究者にとっては執筆する中で西浦の相手をするのが面倒だったかも知れないが、全ての章は西浦が共著とさせてもらい、細かなところまでを西浦が書き換えつつ原稿を作成した。前提知識を一切想定しない読者諸氏らとこの基盤について共有するためにはどうしても必要なプロセスだった。

すでに本邦では入門本と銘打つ感染症疫学の書が存在する。その違いを最初に述べておく。「感染症疫学ハンドブック」(谷口清州著、医学書院、2015)は国立感染症研究所実地疫学専門家養成コースの参加者などが協力して仕上げた専門書であり、疫学の基礎から調査の実際までを学ぶための書である。特に地方自治体などで感染症発生に対応する者などに有用であり、本書が重視する理論的基盤と比較して実践面に重きを置いている。また、訳書として「CDCのフィールド疫学マニュアル」(岩田健太郎ら訳、メディカル・サイエンス・インターナショナル、2020)や「感染症疫学」(ヨハン・ギセック著、昭和堂、2021)がある。前者はフィールド疫学の書であり、後者はコンセプトを含めて広く学ぶ入門書である。本書が訳書と異なるのは、感染症疫学の大学院教育に専門家として特別なエフォートを割き続けてきた西浦が、これまでの履修者の理解度を観察しつつ何度も工夫して改訂を繰り返し、誰も理論的基盤の学修に取りこぼしがないように工夫して作成をしている点である。だから冗長的すぎると感じる部分もあるかも知れない。しかし、読者諸氏にとって、感染症データとの向かい合い方を根幹から変える書を目指している。

編集にあたっては、流行の真っただ中で西浦も睡眠時間のない状態で執筆活動をしたため、金芳堂の担当者の浅井健一郎氏には特別な忍耐を要する職務を強いてしまった。新しい扉を開くためにお付き合いいただいた氏の忍耐に感謝したい。妻の知子、長男、長女、二女には、COVID-19を通じて父の留守が重なった上に社会での喧騒で不安な思いをさせてしまった。帰宅の遅い日が続いているが、喧騒の1つの解決になるものと信じて本書を世に送り出すことができるのは家族の協力のおかげである。本書が、新しい日本の土台を築くことになることを願ってやまない。

2021年9月
西浦博

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お気づきになられましたか? なんと数理モデル編も出ます! 本書9章以降で取り扱ったものをさらに深めた本になります。こちらは専門家向けのより高度な数学的な話が展開されますので、感染症疫学の専門家になりたい人はもちろん、昨今の数理モデリング流行の中、モデリングの超老舗である感染症疫学の本領をのぞきたい生態学者、データサイエンティスト、社会学や経済学の専門家など幅広い層にお届けしたいと思います! 本書をお買い上げの上、今しばらくお待ち下さい!

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■サンプルページ

サンプルとしてchapter3「感染性と重篤度の評価」を前半(1感染性の評価)御覧ください。

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Chapter3 感染性と重篤度の評価

本章の目的

感染症疫学の醍醐味は2次感染の仕組みをデータから紐解くことである。その過程において、データ分析を実施するには感染性と重篤度の2つに関する疫学的指標の基礎を十分に理解することが欠かせない。なぜなら、ある感染症の感染性と重篤度がわかると、その感染症が引き起こす流行の被害想定が理解可能となるためである。本章では、まず感染性と重篤度のそれぞれに関する主要な評価指標を取り上げ、難しい数理的な説明を介さずに考え方を説明する。まず、基本再生産数や2次感染リスクに対して、数理的な本質に触れすぎることなく、親しみをもっていただきたい。


■到達目標

✔ 基本再生産数と目標とする予防接種率の関係を説明できる
✔ 死亡率と罹患率、致命リスクの関係を説明できる

 1 感染性の評価

感染性(transmissibility)は感染症疫学の中で醍醐味となる2次感染の起こしやすさを表す性質のことを指す。感染性を定量的に評価するには、主に2次感染リスク(secondary attack risk: SAR)基本再生産数(basic reproductionnumber R₀)の2つが用いられる。

 (1)2次感染リスク

発病率(attack rate)とは、曝露を受けた集団における感染者の割合である。発病率は本当の意味での単一曝露イベントにおける発病割合を指すこともあれば、古典的な疫学の慣習では、人口レベルでの感染者割合を指すこともあり(“population attack rate”のような用語もあり)、大変紛らわしい指標である。少なくとも、発病率であれば食中毒など短期間の限られた集団に対して使用されることが多い。食中毒の場合、食品間でリスクを比較することによって、原因の可能性が高い食品を特定する。

しかし、発病率は集団全体の最終的な発病状況を見るだけであり、1つひとつの伝播の様子(感染イベントのリスク)を評価するものではない。そこで、替わりに用いられるのが2次感染リスク(SAR)である。SARとは、感染者と接触があった感受性者のうち、その病気を発症する者の割合である。通常、閉鎖空間のように物理的な曝露環境が限定された集団(家庭内や教室など)で測定されることが多い。家庭を対象としたSARは家庭内2次感染リスク(householdSAR)と呼ばれ、頻繁に疫学研究で用いられる。

SAR=(感染者と接触した者のうちの発病者数)/(感染者と接触があった感受性者の総数)

家庭内2次感染リスクは、感染性を有する期間に感染者と一緒に住んでいた感受性者が(曝露を受けた感染者が)感染してしまう確率のことである。特に、この指標は予防接種の効果を測定するために使用されることが多い。図1に家庭内2次感染リスクの単純な計算例を挙げる。この図では、家庭内で感染者と接触があった感受性者が4人おり、そのうち2人が発病している。この場合の家庭内2次感染リスクは50%となる。

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2次感染リスクの推定

2次感染リスクは、感染源の発見に引き続いて、その感染源と家庭内や学校の教室内など同条件で接触を経験した感受性者に関する情報をかき集め、その者たちの間における発病の有無を確認することで推定される。この時、最初に確認された感染者はインデックス・ケース(index case)と呼ばれる。これはchapter1でも述べてきたように、対象集団で最初に確認された感染者のことを指す。

Index caseは、必ずしもその集団に最初に感染を持ち込んだ1次感染者(primary case)と同一ではない。SARの推定では、接触(contact)をどのように定義するかが推定の鍵となる。調査の目的や感染症に応じて接触の定義は異なる。また、SARの推定に関して、決まった時間の尺度はないが、感染源が感染性を有する期間がどの程度であったかによって接触者が曝露したかどうかが決定される。このことは、SARの分母に影響を与える。

加えて、SARの推定値の妥当性を担保する上で困難であるのが、母集団における感受性の同等性である。例えば、ワクチン予防可能疾患である麻疹や風疹などの研究をする際、年齢が高いほど獲得免疫をすでに獲得していることが多い。仮にその獲得免疫によって感染から免れないくらいであったとしても、その年長者を幼児や小学生の感受性者らと同等に分母に含めて扱うことはできない。前提条件として「感受性を持つこと」と「感受性がだいたい似通った者たちの曝露であること」を保証することは観察上で頻繁に問題になる。

2次感染リスクの利点と課題

2次感染リスクを感染性評価に利用する利点として、測定が容易であることが挙げられる(なにせ、割り算だけで良い)。そのため、多様な目的で使用され得る(例えばchapter6で議論するように、予防接種の評価においてSARは極めて有用である)。

他方、上述の通り、必ずしも観察対象の集団全体が等しく感受性を有するとは限らないため、厳密には事前の血清疫学調査などによって感受性宿主であることを担保することが望ましい。また、家庭内で一斉に伝播が起こっている(家庭内で一瞬で全てが起こっている)とは限らないことが頻繁に問題になり得る。例えば、図2に示す通り、等しく感受性を有する4人家族において3人が発症したとき、家族構成員の1人が家庭内に感染を持ち込んで逐次的に伝播が起こったのか、3人それぞれが家庭の外で感染したのか、注意深く観察条件を設定しなければわからないことも多い。

SARは感染性を測るために有用な指標であるが、その測定や解釈の際には上記の性質を踏まえることが必要であり、観察条件の設定と計算の容易さの間でトレードオフがあると言えるだろう。

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(2)基本再生産数(basic reproduction number: R₀)

そこで、理論的により頑健で便利なのが基本再生産数R₀(発音はアールノート)である。

R₀は、集団内ですべての者が感受性を有するときに、1人の感染者が生み出す2次感染者数の平均値のことを指す。Rという文字が使われるのは再生産Reproductionの頭文字だからである。R₀が1を上回る時、それぞれの感染者が平均すると1人より多くの人に2次感染を起こしていることを意味する。したがって、集団内で伝播が続き、大規模な流行へと発展してしまう可能性がある。ここで「可能性がある」という書き方をしたのは、確率的に流行が収束すること(大規模な流行に至らないこと)もあり得るためである(chapter10参照)。

他方、R₀が1を下回る時、感染者数は感染世代を経るとともに自然に減衰するため、絶対に大規模な流行は起こらない。このような、R₀が1を超えるかどうかで流行の有無が決まる現象は数理的に下支えされているもので、その特性を閾値定理(threshold theorem)と呼ぶ。

図3では、R₀=3の場合について、それぞれの感染者が全く均質のふるまいをすると仮定した場合の流行の広がりを示す。1人の感染者がそれぞれ集団内の3人に感染させるため、2次感染パターンに異質性がないまま流行が拡大すれば、感染者数は幾何級数的に増殖することとなり、第n世代の感染者数はR₀ⁿ人となる。代表的な感染症の基本再生産数は表1の通りである。基本再生産数は流行する人口や環境条件によって変動するが、感染症別で大きく異なることから、感染自然史の特徴によって再生産数の大小の多くが特徴づけられているものと考えられる。

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R₀を2次感染のメカニズムを考慮しつつ、複数のパラメータに分解して説明すると、後々の数理モデルでの解釈にもつながるのでわかりやすい。

2次感染は接触頻度によって特徴づけられるという「頻度依存」が仮定できるとした場合、R₀の構成要素は、病原体の感染性、感染者との接触頻度、感染性期間の3つに分解され、R₀はその積で与えられる。pを感染者と感受性者の接触当たりの感染成功確率とし、𝑐を1人当たりが経験する単位時間あたりの接触回数とし、Dを感染者が感染性を有する平均の長さ(平均感染性期間)としよう。これらを使用すると、R₀は次のように記述できる。

𝑅₀ = 𝑝𝑐D = 𝛽D

ここで、βは接触に伴う2次感染が起こっていく時間当たりの率を表すもので、感染係数(transmission coefficient)と呼ばれることが多い〔時折、このβを感染率(transmission rate)と呼ぶ場合があるが、感染率というものが一体何を指してどのような条件で決まる率なのか、観察や理論に関連付けて説明しにくいので、数理的・理論的には感染係数と呼ぶほうが無難そうである〕。

■予防接種と基本再生産数

R₀の公衆衛生上の便利な用途の1つとして、予防接種率の目標設定が挙げられる。予防接種の評価方法の詳細ついてはchapter6で触れるが、ここでは集団免疫に関して広く知られている閾値について議論しよう。

予防接種は接種者本人に対する効果だけでなく、接種を受けた者が帰属する集団全体に対しても間接的な恩恵を与える。例えば、集団内の予防接種の接種比率が𝑣であった場合を考えよう。仮に予防接種の効果を完全であるとすると、未接種者が感受性宿主として残るから、感受性人口の全体に対する比率は(1-𝑣)となる。

このとき、仮に予防接種が集団内でランダムに実施されていたとする。感染者が接触する者のうち、100𝑣%には免疫があり2次感染が起こらない。しかし、100(1-𝑣)%は感受性を有する者の間で起こるので2次感染が成立し得る。したがって、予防接種がランダムに実施された人口における再生産数は以下のようになる。

𝑅𝑣 = (1 − 𝑣)𝑅₀

R𝑣は、予防接種実施集団において1人の感染者が生み出す2次感染者数の平均値である。対策下の接種率なので、これは実効再生産数と呼ばれる。今、このR𝑣が1未満の値を取る場合を考えよう。R𝑣<1が満たされるというのは、予防接種だけで大規模な流行が起こらないことを意味する。式(3-3)を𝑣について解いた結果、以下の𝑣を満たすような予防接種プログラムをすると良いのがわかる:

𝑣 > 𝑣𝑐 = 1 −1/𝑅₀

ここで、𝑣𝑐は臨界免疫割合と呼ばれる。これは予防接種を実施する際の接種率目標値として用いられる。

■集団免疫

これまで、予防接種が集団にもたらす効果に関して考えてきたが、それに関連付けて集団免疫(herd immunity)について十分理解をしておきたい。集団免疫とは、ある集団に帰属する構成員のうちの免疫保持者と共同生活することに帰することができる間接的な人口レベルの保護効果を指す。イラストを通じて提示するとわかりやすい。例えば、図4のように接種率が全く異なる2つの集団がある場合(集団Aは予防接種率が20%、集団Bは予防接種率が80%)を考える。あなた自身も予防接種者で、この25人の集団の中央にいる者だとしよう。そのとき、あなたはどちらに住みたいだろうか。おそらく短絡的でもすぐに集団Bと答えられるのではないだろうか。

それは、単純に集団Bのほうが、予防接種者によってあなたの周りがしっかり固められているからではないだろうか。集団Aでは周囲の者が感受性を有する。すると、そういう集団ではあなた自身もいつ曝露を受けて感染してしまうかわからない。これはchapter1の冒頭で解説した感染症の特徴の1つである「従属性現象(dependent happening)」に帰することのできる議論である。あなたの感染リスクというのはあなたが帰属する集団において、どれくらい易々と感染症が流行し得るかということに大きく左右される。周囲が護られた集団に帰属しておいたほうがオトクなのである。

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■予防接種済み集団の基本再生産数

同じ議論をもう少し深めよう。

図5は予防接種を実施した集団での感染伝播の様子を比較検討したものである。この集団は、人口全体の1/3が予防接種により免疫を獲得しているものとする。元々のR₀=3であるとする。すべての者が感受性を有する集団であれば、図3と同様に1人の感染者が3人に2次感染を起こすはずだった。しかし、図5では免疫保持者が感染連鎖を断ち切ることに成功した(図中の破線部分)。

集団全体でみると、予防接種により免疫を有する者が部分的だけでも存在することで、未接種者の間でも感染を免れることにつながった者がいることになる。周りがしっかり免疫保持者で固められた集団にいれば、未接種者でも間接的に接種プログラムの恩恵にあずかることができるのである。これが予防接種の間接的効果(indirect effect of vaccination)であり、それによって人口レベルで感染から免れている現象を「集団免疫」と呼ぶ。集団免疫とは、上述の通り間接的な人口レベルの保護効果を指す。

これは流行制御にとっては朗報である。集団に帰属する多くの者が免疫を獲得し、集団内で2次感染が連鎖的に発生し得ない状態が達成されれば、人口の100%の接種をしなくても流行を予防できるのである。ただし、ここには空間的なクラスタリングなどの落とし穴の問題もある。感受性者が集団内でランダムに存在する状態では集団免疫が十分であれば流行が起こらずに済むが、往々にして感受性者は同じ居住地区や同じ社会階級・職業などで1つの限定した場所に集まってしまうことも少なくない。すると、そういった集団は局所的にみると感受性宿主で満たされた局所人口になってしまうので、人口全体での集団免疫が適用されない、というような集団発生も過去に認めてきたことを忘れてはならない(例:オランダでは麻疹の予防接種率は94%と高く、それはR₀=20としたときの臨界免疫割合95%にほど近い状態だったが、感受性者が同一地域で集まったために、そういった予防接種率の低い地域を狙い撃ちするかのように集団発生が多発したことがある)。

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ここまでに、感染症の拡がりの記述をする道具としてR₀に集中して解説をしてきた。R₀は紛れもなく、感染性の大小に関して数理的定義も伴った頑健な指標であり、それは次元をもたないために疾病間の比較にも役立つ。しかし、感染者数が増えるスピードを議論する際には、感染者数の時間当たりの増加率に着目すると、世代間隔(generation interval)も十分に考慮することを忘れてはならない。

図6は、R₀と世代間隔とがそれぞれ異なる2つの感染症について、感染者の時間当たりの増加率を比較して示している。インフルエンザと天然痘のR₀を比較すると、圧倒的に天然痘のほうが感染性が高い。しかし、インフルエンザの世代時間は平均すると約3日であり、他方で天然痘のそれは15日間程度である。つまり、天然痘の1世代を経るまでにインフルエンザは5世代目に至ることができるのである。結果として、世代間隔が短いために、インフルエンザのR₀のほうが低くても感染者数自体の増加スピードはインフルエンザのほうが速い、ということが起こる。天然痘は世代間隔が長いので、R₀が大きくても接触者を追跡することができるが、インフルエンザは感染者数が増えるサイクルが速すぎるため、保健所などのキャパシティ内で接触を追跡して流行を止められない、ということになるのである。感染者数の増加スピードは単純なR₀の比較だけでは対応できないことを覚えておこう。

最後に、本稿ではR₀の定義が、すべての人が感受性を有する集団において1人の感染者が生み出す2次感染者数の平均値であると述べた。ここで気づいておかなければならないこととして、R₀はあくまで平均値であることが挙げられる。実際にはさまざまなバラつきが起こり得るため、平均値ばかりでなくてバラつきのほうが重要になることも少なくない。例えば、平均から大きく外れて、異常に多くの人に2次感染を引き起こす感染源のことを「スーパースプレッダー」と呼ぶことがある。そういった同質にふるまわない特性のことを「異質性(heterogeneity)」と呼ぶが、その要因には接触率の異質性はもとより、年齢の異質性や遺伝的バックグラウンドなど、さまざまな要素があり得る。また、すべての者が感受性を有する集団というのは、あくまで数理的定義に要するものであって、現実的にそのような集団を欲して定義をするべきではない。流行中はさまざまな対策や人々の行動変容によって伝播動態は変動する。そのため、時々刻々と変化する実効再生産数(effective reproduction number: Rt)を定量的評価の現場では頻用することが多い。これは流行中のある時刻において、一定の対策が講じられた状況で1人の感染者が生み出す2次感染者数の平均値を意味する。Rtについてはchapter10で詳しく触れる予定である。

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※お詫び
文中ではnoteの機能制約もあるため、Rt、Rv、vcの添え字は下付きにせずそのまま表現しておりますが、書籍では以下のように下付きで表現しています。

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■終わりに

今回の「編集後記」、いかがでしたでしょうか。このマガジンでは、金芳堂から発売されている新刊・好評書を中心に、弊社編集担当が本の概要と見どころ、裏話をご紹介していきます。

是非ともマガジンをフォローいただき、少しでも医学書を身近に感じていただければ嬉しいです。

それでは、次回の更新をお楽しみに!

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