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消極的自由と積極的自由 ーあなたにとっての自由とは?ー

「消極的自由」「積極的自由」という言葉を聞いたことがあるだろうか?

アイザイア・バーリン(1909-1997)というイギリスの哲学者が提唱した「自由」についての概念である。

最近の私は、コーチングを通して、感情・感覚・思考に対し、「自覚的」になっていくことを大切にするようになった。

今回はその一環として、日頃よく用いる「自由」についても自覚していきたいと思う。



1. 消極的自由とは

消極的自由(negative liberty)とは、「〜からの自由」と言い表せるような「束縛・強制からの解放をもたらす自由」である。

消極的自由の問題は、不安の発生にある。

民衆が封建制下で被支配階級に固定されていた中世は消極的自由に欠けていた一方、社会への帰属人生の明確な目標(キリスト教の信仰)があった。

しかしルネサンス以降では、宗教改革や資本主義の勃興に伴う自由の獲得(個人主義の台頭)によって、神による目標の担保や帰属感の喪失、無力感といった「不安」が発生するようになった。



2. 積極的自由とは

積極的自由(positive liberty)は、19世紀自由主義の理念であり、「〜への自由」と言い表せるような「自己支配的・自律的な自由」である。

積極的自由の問題は、権威主義化と自動機械化(自動人形化)にある。

権威主義化は、マゾヒズムとサディズムによる他者との絆の回復を求める傾向である。

自動機械化は、他者の意思を自分の意思として(無意識に)内面化する、つまり不安を回避するため強迫的な画一化を欲する傾向である。

アーレントは、一見デメリットしかないように思える中世における階級による束縛にも、「階級に帰属意識を持つ」という意義があった、と考えた。

近代の西洋が消極的自由から積極的自由へと進んだ結果、上述の問題によって積極的自由を捨て、逆に以前のように支配されたがる、ナチス・ドイツの民衆のような人々が現れるようになった。



3. 消極的自由と積極的自由の違い

両者の違いは、自由に対する感じ取り方と、不安の性質にある。

消極的自由がある社会では、自由を勝ち取って享受しているものの、その以前にあった神による目標の担保や帰属感が失われたため、不安を感じる。

積極的自由がある社会では、個人の存在や意思が尊重される自由を勝ち取ったものの、享受する以前に「人がたくさんいるはずなのに、逆に孤独を感じる」といった自由に対する恐れがある。

そして、自ら他者と同一化し、操られることを望むような不安がある。

この中には、「あくまで自分で決めたことだ」と合理化を図り、表向きだけ積極的自由を享受している者もいる。



4. 私にとっての自由

さて、この自由に対する私の見解は、「個々が自覚的に選ぶことができる状態が望ましい」である。

「個々が選ぶ」という答えは、一見すると中途半端で曖昧に思えるかもしれない。

だが自由と一言で言っても、個々に合った自由像というものがあるはずだ。「どの部分がどのように自由だと良いのか?」について、各々が自覚的になった上で、自由を獲得したり、手放したりするのが理想である。

そうすることで、「自由とは、まさに◯◯である」という同調圧力を生み出すことなく、一方で帰属意識や人生目標の喪失、権威主義化、自動機械化といったリスクを肥大化させない社会に近づいていくのではないだろうか。


またもしかすると、徹底的な全体主義を望む人もいるかもしれないが、国家や地域、職場といった小〜中規模なコミュニティでは満足できず、人類全体での同調を求める人はあまり想像し難い。

なんらかの形で多様な個々が満たされる社会は、デザインされうると思う。

そんな願いを持って、この辺りで筆を置こう。

2020年7月22日 執筆
2021年7月7日 追記・修正

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