日本を2分する戦い

日本社会を2つに分けると、左右より貧富より男女より、別の属性で分断があるんじゃないかと最近よく思う。

寝る前にヤフーを巡回した。

迷惑な人
3人の女子トークが、周囲の「迷惑な人」を斬るドラマが始まるんそうだ。
そうやって陰口に励む女性が一番ウザい、とのコメントも一定比率あった。

私は「こういう迷惑な人はいませんか?それは発達障害です」といった安易な共感と憎悪で持たせている素人ネット記事の害について、先日投稿した。
マナー講師に乗り遅れるな式は、もう飽きた。

チー牛
見慣れないネト媒体に。
「チー牛」が乱用され、定義が曖昧になり、ただの罵倒語にとの記事。

元来「さほど酷くない軽度の陰キャ若者の微妙さを表現する語」だったのが、「ネットで流行ってる」と飛びついた人々が乱用。
「暴力的な男性」「容姿が優れない男性」「中年男性」「発達障害」など、その時に気に入らない男性を罵倒する語になっているらしい。

コメントでは「評価自体が愚か」「使ってるフェミニストの矛盾」「語の定義を変化させるのは頭悪い人々」といった指摘があった。

(途上国での現地生産車を国内新型車だと誤認させる記事を量産している会社、ネット批評の方がマトモな記事を書けるんだな)

セクシー田中さん
作者への追悼で「平凡で繊細な人物の描写」を称える投稿が多かった。
その平凡さ繊細さ、いじめっ子側が名前ごと奪う行為があって、作者が生命を賭して戦ったわけだ。そりゃ人質話法で鎮火しようったって無理だろう。

僕は新聞ローカル面の編集業務が長かったんだが、「載ってる」すなわち「認められた」で、人が安堵するところ大なんだな。

まだ誰も字や絵にしてなかった繊細な心情を形にする。
同じ心情を持つ人が受け取ると、自分が独りではないと気付き、勇気づけられ、作者に感謝さえするわな? これって芸術や創作の良い所だ。

まだ誰も記録していない微妙な心情、描き伝え共感されるには、腕が要る。
微妙なものを見付け出すには、繊細さ、送り手擦れしない謙虚さも要る。
微妙な薄味を表現するには、語彙や表現技法の多さも要る。
微妙な薄味、途中で諦めて雑にまとめず、深掘りを続ける粘り強さも必要だ。
だから「平凡で繊細」を形にすることは、腕の証明、作家の真価だと僕は思うんよ。

でも今は、自称リーダー集団が「称えない者は仲間外れ」と脅すような発信とコンテンツが多いでしょ。それも、パクリ・流用・いじめ・色欲。

日本を2分する対立
もはや「右か左か」ではない。
もちろん、陰謀論の諸兄の言う「光と闇」でもない。

A. 多数派志向、他罰、肩書き、信者、集団で嘲笑
B, 論理性重視、寛容、個人、反扇動、クスッとした笑い

うーん、微妙さの表現を推しながら、俺の腕が伴っていないのが悲しいが。
「いじめvsまじめ」
とでも要約しておこうか現時点では。

認めなきゃ無罪、サクラ使って多数決、村八分と発達認定。
こういう学級会じみた恐怖政治の社会だし。

「いじめvsまじめ」
日本社会は、この2種族の対立と言ってよいのではないか?

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