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たまる下書きの山よ

少々プライベートでバタバタしているせいもあるのだけれど、noteの下書きが溜まって仕方ない。

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書くからには前向きな明るいことを書こう、なんて思っているので、余計書きづらいというのもある。なんかこう、前向きになれず明るい気持ちが湧いてこない。疲れているのかもしれないし、プライベートのバタバタがあまり良い話ではないせいかもしれない。ま、人生はいろいろある。

「面白みはどうやったら出るのか」という記事は、自分という人間が本当に面白みがないなあとふりかえっていて、どうやったら面白い人間になれるんだろうと考えようとして途中で頓挫している。この場合の「面白い人間」は芸人やお笑いのことではなく、他人が興味を持つような人間、という意味だ。

「アウトプット診断」なんていただいてからもう1年近くたってしまっていて、今さら書くのもなあと思うけれど、どうしたもんだか。

「ナイヤガラほど水量がない」のは猫野サラさんの記事に触発されたのだったが時機を逸している。だいたい何を書こうとしていたのか、残っている下書きを見てもよくわからない。

「天から堕ちる」に至っては下書きにこう書いてある。

神託の声が聞こえない。巫女だったのに確かに巫女だったのに。

以前は小さいけれど聞こえていた。
「心の声を聞いてごらん」と言うカレンダーの言葉を見たときに、あー心の声が聞こえない、と思った。いつから聞こえなかったんだろう。聞こえない聞こえないと思いながら、聞こえないことに意識を向けないようにしていたのかもしれない。

田舎の小さな神殿ではあったけれど、確かに神の声を私は聞いていたのだった。それで人々にも役立ててもらっていたのに。いつから聞こえなくなったのだろう。

これ、わたし何を書こうとしていたわけ?
小説?
エッセイ?
もうすべてが謎である。

こういうのがあちこちに散乱している。noteだけじゃない、twitterにも一言書いてあとは放置、ってつぶやきがたくさんあるし(つぶやきとはそもそもそうしたものかもしれないが、ここで言っているのは「何かのとっかかりのためにとりあえずメモだけ残す」的に呟いたものだ)。

スマホのメモ帳にも一杯いろいろ書いている。なんなら小説の書き出しもある。でもあまりにも下手なので(自分で読んでて下手だとわかる)お蔵入りだ。いつか日の目を見る時は来るんだろうか。

人が来ない文章修行用ブログがあるのだけれど、そこにもどうしようもないボヤキみたいなことばかり書いてある。たとえば、

風呂で考えていた事を書こうと思うのだけれど、いつも忘れてしまう。
最初はTVにモーリーさんが出ていて、そこからロバート・キャンベルさんを連想したのだった。
そしていくつもの言語を話すことを風呂でぼんやり考えていて、自分がかつて学んでもいいと思った2つの領域、つまりフランス文学と哲学のことを考えた。何を考えたんだっけ。もうおぼろげで全然何も出てこない。

思考をピン留めしておけたらいいのに。

うーん、確かに入浴中はいろんなことを考える。そして出てくると忘れている。認知症か?

ふりかえってみると、何か考えをめぐらすのは移動中のことが多い。列車、飛行機、などなど。つまり他にやることがなくて、頭の中でボーッといろいろなイデアやイメージをもてあそんでいる、という感じかな。風呂もそうだ。「他にやることがなく」というのがキーなのか?

何とか時間を作って「ボーッとしてみる」のが良いかもしれない。

・花が咲いているところに行って木陰にシートを敷いてボーッとする。
・お気に入りのカフェ(いくつかある)に行って好みの飲みものをオーダーし、ボーッとする。
・たき火を見てボーッとする。
・海の波の果てしない繰り返しを見ながらボーッとする。
・図書館の圧倒的な量の書架を前にしてボーッとする。

そんな「ボーッと」に憧れる毎日である。ボーッとすれば考えも浮かび、文章も出てきてnoteの下書きも減る、なんてことないかなあ。

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