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日記を書いてみたい

このところ寝る前に武田百合子の「富士日記」を読んでいて、自分も日記を書いてみたいと思い始めている。人に見せない日記帳ではない。noteなど公開の場所で読み物として公開する日記だ。

百合子は作家の武田泰淳夫人で、この「富士日記」をはじめ自らもいくつかの随筆を著し高い評価を得ている。だいたい他人の日記を読むのが好きなので、一度読んでみたいと思っていた。そして今、読んでいる。

実は武田泰淳の作品は読んだことがない。「ひかりごけ」という題名だけしか知らないが、それは内容などわからなくてもそこさえ知っていればテストはOKだったからだ。だから泰淳の作品がどんな傾向で百合子がどんな人なのか全く知らず読み出した。わかっていたのは「富士山麓にある住まいでの記録」というところだけ。

読んでみたら百合子さんは女傑で姉御だった。読んでいるのはまだ昭和40年の途中で「富士日記」の始めの方だけど。昭和40年といったら自分も生きていて物心ついている時代なので、当時の風俗やら何やらが思い出されてそこはかとなく懐かしい。これからどうなるのかな。長い日記なので楽しみだ。

外にもnoteでいろいろな人の日記を読んで、ああ自分も書きたいなと思っている。日記って、基本的には起こったことの記録だけれど、そこに著者の感じた色合いや考えた思考の連想の先などが複雑に入り交じっておもしろい。


だけど日記を書くには、感じたこと考えたことを解像度高く言語化することが必要だ。そうでなければ単なる記録になり読んで面白いものにはならない。ちょっとだけ試しに書いてみてはいるが、なんだか毎日食べたものの記録になりつつある。日記を書くにも筆力と感性と思考力が必要だ。Emikoさんが企画した#描写遊びをしたり、ものをあれこれ考える練習をしないと、とても読めるものにはならないかも。

それから、日記であるからにはある程度自分の毎日の生活が晒されるわけで、もちろん「これは書かない」と決めて触れないことはできるが、それで感じたものや考えたことをうまく表現できるかどうかはわからない。どこかの事実を伏せて書くことで読み手に何も伝わらない文章となってしまうかもしれない。

それでも何か書いてみたいなあという気持ちは、ある。たとえばこんな風に。

(「富士日記」について)
日記には毎日食べたものだとか買ったもの、それらの値段がよく記されている。作家ってどのくらいお金がもらえていたんだろう。野菜や肉が安いなと思う時もあるし、ガソリンや酒等は結構高いじゃないかと思うこともある。大体この富士山麓の家は別荘なのだ。作家って別荘が建てられるぐらい儲かるんだろうか。うちは別荘なんか立てられなかった。タイツの膝に穴が開くと母が丁寧に継ぎ当てをしてくれていた。それが別に変な事でも何でもなかった。みんな貧しかった。東京では違っていたんだろうか。

単なる読書感想文かな。この文章を書いた日はこれ以外に食べたものと体調の記録とやった仕事が書いてある。でも積み重ねていくと、もしかして新しい視点が見つかったり自分の気持ちの整理ができるかもしれない。

で、気持ちの整理が出来たとして、それは自分以外の人には何か意味があるのかな? やはり誰も見ない日記帳にアナログに書き付けておくのが良いのかな?


トップの画像はこげちゃ丸さんから。ありがとうございます。こげちゃ丸さんの画像って使いたくなるのがたくさんあります!




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