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てんとう虫

朝に河川敷を歩いていると、足元の草むらにてんとう虫がいることに気が付いた。そしてその時、何故かもう随分と長い間てんとう虫を見ていなかったなと思ったと同時に、ある感覚に襲われた。そのてんとう虫は、僕にある物語を告げに来たのだ…。

子供の頃は全てが新しい。初めての海、初めての学校、初めての遊園地。全てが未体験で、世界は新鮮さで溢れている。対して大人は何と、何と退屈な事であろうか。大人は経験する全てが既知であり、全てが予測可能で、ほとんどの刺激は幸せの閾値を上回らない。よくゲーム界隈では「記憶を消してもう一度プレイし直したい」と言うが、まさにこれは人生にもそのまま当てはまる。僕らは”日常”というゲームをもう何周もしていて、新しいイベントを見る機会は滅多にない。出来ることなら初めて海を見た時の感動をもう一度思い出したいものである。

自宅の近所に幼稚園がある。幼稚園からは楽しそうな園児の声が街中に響いている。僕はその声に微笑ましさと同時に妬ましさを感じてしまう…。なぜお前たちは鬼ごっこをするだけでそんなに楽しそうなのか?なぜ滑り台をすべるだけで心の底から笑えるのか?なぜ大人はそうも行かないのか?。大人が本気で楽しもうと思ったら、時間と金と手間がかかりすぎる。もう一度海を初めて見たときのあの感動を思い出そうと思ったら、もう月に行くぐらいしかない。映画も漫画も音楽も、どのエンタメも後半で盛り上がって最高潮で終わるようにできてるのに、なぜ人生はその逆なのか。あまりにも酷い設計だ。

無知によるこの類の多幸感と全能感は中高生辺りまで持続する。俺が塾講師だった頃、自分が体操選手になることを信じて疑わない生徒がいた。確かに彼はバク宙ができるし、体育の成績は上位だし”地元じゃ最強”かもしれない。だが彼は体操の経験があるわけでは無かった。単に運動が得意だから、体操選手になることを進路の主軸に組み込んでいた。でも俺は知っている、彼が絶対に体操選手にはなれないと。どの分野にも幼少から大量の時間と期待をかけて育てられ、かつ優秀な遺伝子を持つ怪物が存在する。地元で”トップ”ではなく"上位"程度の素人が高校からの努力でその理不尽を覆せないことを俺は知っている。でも彼は自信に溢れていて、まるで自分が映画の主人公のように奇跡的な逆転をすると思っている。ありえない低確率が、自分だけには起こると信じている。俺はその夢を否定はできなかった。

こどもは自分の人生が小説のような夢物語になることを信じて疑わない。だがいつからだろうか、大人はそれが文字通り夢であったことに気付く。自分は世界の主人公でなく、自分の完全上位互換は必ずどこかにいて、代替可能な存在で、自分は自分の人生の主人公にしては大したことはないと。さながら天動説から地動説への移行のようだ。

そして大人になって待ち受けるものはなんだ?週5、8時間超の労働か?低い賃金か?アルコールでごまかす大量のストレスか?別に俺は鬱々としてるわけじゃない。少し文句を言いたくて誇張してるだけだ。文句、そう人生の幸福度が構造的に減少しがちなことへの文句だ。

俺はあの時、たぶん小学生ぶりにてんとう虫を見た。てんとう虫は俺が高校生の時も、大学生の時も草むらにいたはずなのにずっと見て無かった。それは大人が世界を好奇心の枯れた目で世界を見ているからだろう。目的に関係のない背景として草むらを処理していたからだろう。こどもには楽しみにあふれたコンテンツであるというのに。でも、なぜ俺はてんとう虫を見つけられたのだろうか?この歳になって自分の目にてんとう虫が現れたというのは、自分の精神にも取り戻すべき童心がある証拠なのかもしれない。このてんとう虫はそれを教えるべく幼少期からタイムスリップして、ここに現れたのかもしれない。とそんな妄想に見舞われたって話。

以上6月13日の日記でした

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