発症から現在に至るまで

母にまつわること全て、忘れたくない。この闘病生活を知ってほしい。
その想いでここに母のALSの発症から現在に至るまでを書き記すことにした。

2019年
僕が一浪して念願の大学合格を果たした時から、母は発症した。最初は両腕、両肩から。筋肉が衰え、腕の可動域が狭まった。腕自体が重いと感じるようになった。この時は、家族全員、ALSなんて単語、頭にもなかった。
病院に行ったが、誤診をされ、この段階で受けることができたはずのALSの治験を受けられなくなった。

2020年春〜冬
筋肉の衰えが顕著になり、車の運転が難しくなった。ゆっくりしか歩けなくなった。母は急激に痩せていった。
僕は、もしかしたら治らない病気かもしれないと伝え聞き、実家で1人、味わったことのない絶望感、苦しみ、悲しみで頭がいっぱいになった。自分の感情を処理しきれず、頭を掻きむしりながら地面に這い蹲り、頭を床に打ち付け、叫ぶ僕は、このまま狂ってしまうのではないかと思った。本気で、脳みそがおかしくなる、爆発するのではないかと思った。

2020年11月、母は大好きだった仕事を辞めなければいけなくなった。もう、母の体では働くことができなかった。
落ち込んで帰ってきた母に、悲しい時ほどおいしいものを食べてほしいと、母の一番好きな鷄の唐揚げを作った。

この頃から、藁にもすがる想いで母と父は占いに通い始める。風水的に今の家が(旧家)良くないとのことで、25年間住み続けた家を手放し、引っ越しをした。
引っ越した日、母は泣いていて、父が抱きしめて慰めていた。僕は無力で、涙を堪え、唇を噛み締めることしかできなかった。
その翌日の昼食は、まだ何も新居に料理道具が揃っていなかったため、デリバリーするほかなかった。
母に何が食べたいかと聞くと、無気力に、「なんでもいい」と返ってきた。
結局僕は、1人で近所の洋食屋にテイクアウトへ向かった。この時の切なさを、やるせなさを、きっと忘れることはないだろう。

ある日、ダイニングで弾き語りをしていると、突然母が泣き始めた。僕も一緒に泣きながら、母を撫で、抱きしめた。母の前で僕が泣いたのは、これが最後だったと記憶している。

2020年12月
たくさんの検査を受け、全てに異常がなしと出た。ALSは原因不明であるため、消去法でしか病気を診断することはできない。主治医には、「おそらくALSだろう」と診断された。
しかし、ALSと診断されるということは、厳しい道の先に、死が待っていることを宣告されることと同義だ。
僕らは、信じたくなくて、京大病院までセカンドオピニオンを求めに行った。
取ったホテルは高めのスイートルーム。赤いポインセチアが僕らの心と反対に生き生きと輝いていた。
母の手を繋ぎ、優しい時間を過ごした。セカンドオピニオンという一縷の希望に縋り、僕らは同じベッドに座り色々な話をした。

しかし、その後、地獄のどん底に突き落とされた。
翌日、長時間京大病院で待ったあと、下された診断は、やはり、ALSとのことだった。
あなたは体が動かなくなって死ぬと宣告されたのだ。
帰りの車内は空気が鉛のように重かった。
僕だけが京都に残され、父と母は地元へ帰った。僕だけを取り残して去っていく車。無力感で頭がおかしくなりそうだった。あんなに悲しそうな顔をしているのに、僕は何もできない。僕は悲しみのあまり、この時左手首を包丁で切り落とそうとした。

京大病院を通るたび、この時のことを思い出す。

時はすぎ、クリスマスになった。母に少しでも喜んで欲しくて、クリスマスケーキを作った。


母は喜んでくれた。ALSにおいては、体重の減少は症状を急加速させる。そのためにも、カロリーを摂って欲しかった。僕の作ったものなら、母は食べてくれるから。

2021年春〜冬
コロナ禍に入り、僕は大学の授業がオンラインになった。そのため、地元でつきっきりで母の介護と家事をするようになった。朝ご飯と薬の用意、体位変換、洗濯、母のリハビリを兼ね、100メートルほどの散歩、昼食の用意、マッサージ、目や皮膚のケア、夕食の用意、そして片付け。毎日その繰り返し。
外界との接触はなく、太陽を浴びることもない毎日。母の苦しげな呼吸を途絶えることなく聞き、狂い出しそうな日々。僕は孤独感に苛まれた。楽しそうな大学の人たちが憎らしくて仕方がなかった。世界を呪い、不条理を呪った。

そんな中、母を美容院に連れていった。これが母との最後の外出になるとも知らずに。「可愛いよ」と連発する僕に母は少し照れた様子だった。たくさん写真を撮った。

病気の進行は無慈悲で、母の症状は悪化していく。まず、自力で立つことができなくなった。首を支えることができなくなった。座ることが難しくなった。自力で食事をとることができなくなった。僕の手を、握り返すことができなくなった。この頃から、母は毎日死にたいというようになった。

秋になり、僕の誕生日が来た。母は「わたしが死んだら海に撒いてくれ」「早く死にたい」と言っていた。僕の誕生日はその記憶しかない。唇を噛み、涙を堪えることで精一杯だった。

そして3月9日、母の誕生日が来た。
僕は母の好きなチューリップの花束と手紙を送った。あの時の母のたくさんの感情が混ざったしわくちゃの泣き顔を僕は生涯忘れたくない。

2022年
母は寝たきりになり、家に介護ベッドが導入された。たん吸引も頻繁になった。
母はベッドの上でぼーっとする日々を続けていた。
僕は突然美容院で泣き出し、そこからうつ病になってしまった。

一方母は、呼吸筋が衰えたため、NPPV(非侵略的人工呼吸器)を装着した。早く死にたい母は、不本意だったというが、僕ら家族は嬉しかった。そう、いのちの決断を迫られるとき、患者も、患者の家族も絶えず己のエゴと相手への想いの間で日々葛藤している。

早く死にたいと言い続ける母に、「ハルの大学卒業を見るまでは生きてみようと思う」と言われた。プレッシャーより、喜びの方が大きかった。
死に物狂いで単位を取り、母のことについて卒論を書いた。「終末期医療に関する倫理学的問題」というタイトルで、ALSのいのちの選択について論じた。調べている途中、書いている途中、何回も過呼吸になった。大学の図書館で過呼吸を起こし、動けず、しゃがみ込んだこともあった。それでもなんとか書き終え、A+をもらい、無事卒業を果たした。母は喜んでくれた。「これだけは、頑張ったね」と。

2023年
僕は院浪をした。しかし、重度のうつ病(精神障害二級)と実家への往復もあり、勉強に集中することが困難だった。結果は予想通り、落ちていた。親には「院に落ちたら後がないぞ」と言われていたため、怖かった。冬院試は僕の精神状態から受けられなかったが、親には冬も受けたが落ちたと伝えた。

2024年
僕は親に頼ることをやめ、独り立ちすることを選んだ。フリーターになった。
新しく始めたアルバイトで忙しくしている中、精神状態は悪化していく。そんな中、父から、「母親が話せるうちに帰ってこい、早くて来月にはオピオイド(麻薬製鎮静剤)を使うことになる(=死)」とラインが来た。僕は何を思えばいいのかもわからないまま、急いで実家へ向かった。
食事は、ミキサーにかけゲル化したものしか食べられなくなっていた。
僕の作ったものを食べてくれる日々は終わったのだ。

経鼻頸管栄養もしない、という母。もうベッドの上だけの生活には耐えられないという。
父はそれを聞き、泣いていた。
それでも、鼻口マスクをしようと思う、と母は言ってくれた。ほんの少し、希望が見えた気がした。

しかし、その翌日にはまた、早く死にたいと言っていて、そこで母と話しながら、発症から5年、母の前で2回目の涙を見せてしまった。
実家から離れる前、手紙を父と母に向けて書いた。
父に手紙を読んだ母の様子を聞くと、「呼吸を荒くして泣いていました。その後に、困ったなあ。と呟いてた。」とLINEが来た。


ここまでが、現在までの状況。
これから先どんな闘いが待っているか分からない。ひどく辛く、苦しいものだろう。
それでも僕は逃げたくない。向き合う怖さより、逃げる怖さの方が100倍大きい。

生きているから迷うことができる。どれだけ辛くても、考え、迷い、葛藤し、悩み続けることをやめたくはない。きっとそれが、後悔の少ない最期に繋がるはずだから。

長文なのに、ここまで読んでくれてありがとう。心からの感謝を。どうかあなたとあなたの大切な人が健やかに過ごせますように。

そして、これからの僕らの生き様を見守っていてくれると、それより嬉しいことはない。

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