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(今さら)リトル・マーメイド実写映画で思いだす、ムーランの衣裳を着た幼い私の話

子どもがある程度大きくなり、ディズニー映画を避けることはできなくなった。請われるがままディズニー+を契約し、子どもと一緒に、自分がかつてビデオが擦り切れるほど見た懐かしい作品の数々を今一度見るのは、とても幸せな時間だ。

中でもアニメ「リトル・マーメイド」に心を奪われた子どもは、おすすめ作品に「本物の人魚が出ているやつ」があることに気付き、見よう見ようと誘ってくる。一昨年に公開された実写版の「リトル・マーメイド」だ。

意識的に避けてきた。この作品は、海外で幼少期を過ごした自分の心に溜まったままの澱のような何かを、また思い起こさせると感じていたからだ。しかし、見ざるを得ない。その澱に、向き合いざるを得ない。

本作の話題の中心は、アリエルを演じる俳優が黒人であることで、日本語の投稿においても数々の否定的な議論を巻き起こした。しかし現代において、「黒人をキャスティングすること」を否定するのが全くもってナンセンスであることは、まともな価値観を持つ人なら誰だってわかっている。Twitter上で私が目にした中で、大変多くの支持を得ていたのが「すでに完成された白人のプリンセスを、無理やり黒人に演じさせること」を否定し、「ならばゼロからみんなが憧れるような黒人のプリンセスを作れば良い。みんなが幼少期に憧れたプリンセスに手を出すな」という意見だった。

そもそも、ポリティカルコレクトネスに囚われてディズニー作品の質が低下しているという論調にはあまり興味がない。また作品自体の出来やアリエル役の女優自体の評価は、どうでも良い。ただ一つ、大変多くの賛同を集めた上記の「黒人用のプリンセスを作れば良い」という意見が、他民族の中で育つ子どもにとって、さらに複雑でやりきれない思いを覚えさせることについて書きたい。

私は、90年代から2000年代の幼少期をヨーロッパのある国で過ごした。クラスの人種構成は、80%が白人、10%が黒人、0.5%がパキスタンなどの南アジア人で、東アジア人は私一人だった。もちろん人種からくるいじめは多くあったが、運よく6人ほどの白人の女の子で構成された仲良しグループに入れてもらうことができた。

小学校にも上がると、Princess Theme Partyというプリンセスの格好をして出席するイベントや誕生日パーティーが頻繁に開かれるようになり、それぞれがお気に入りのディズニープリンセスの衣裳を持つようになる。私は、当時ティンカーベルが一番好きだった。金髪のお団子も、パチパチと瞬きを繰り返す青い目も、ミニスカートから伸びる真っ直ぐな足も、大好きだった。しかし、仲良しグループの中の女の子が、先にティンカーベルの衣裳を購入してしまったのだ。ブロンド碧眼の彼女がティンクの衣裳を着て現れた瞬間、私は「本物みたい・・」とうっとりと眺めたのを覚えている。

当時7~8歳だったと思うが、自分はもう着れないな、と感じたのも覚えている。そんな私を見かねて・・・ではなく偶然だとは思うが、別の友達が「アラジン」のVHSを貸してくれた。ジャスミンが自分からジャファーにキスをする気持ち悪さは幼心に強烈だったが、ジャスミンとアラジンが魔法のカーペットで空を舞う姿に夢中になった。そして、このプリンセスなら自分も着れるかもしれない、と思った。色が黒く、痩せている自分でも、これなら似合うかもしれないと思った。誕生日だかクリスマスだかにジャスミンの衣裳を買ってもらい、意気揚々とイベントに着て行った。小さな私の承認欲求は大いに満たされた。

さらに98年、映画「ムーラン」が公開された。私が知る限り、初めての東アジア人のプリンセス。私の目にはプリンセスが憧れるほど可愛いとも思えず、また夢中になるようなロマンチックな描写もなかったが、当時人気絶頂のクリスティーナ・アギレラが主題歌を歌ったこともあり、一定の認知度を得た。友人たちは「ムーランの衣裳着たら絶対素敵だ!」と大盛り上がりで進めてくる。祖母が縫ってくれた着物とも全然違うし、中国と日本が違う国であることはもう分かっている年齢にはなっていたが、それでも「自分(のような子)のために作られたプリンセス」であると感じていた。ディズニーストアで衣裳を買い、誕生日パーティーに着ていく。

部屋中に広がる、「Awww!」の声。シットコムの感動的な場面で観客が漏らす「オーーーゥ」というやつだ。東アジア人の小さな少女が、民族衣裳(っぽいもの)を着て、黒い髪もお団子にまとめ上げた姿に、大人たちは大変感動していた。またその頃にはもう一人、黒人と白人の両親を持つ子もグループに加わっており、彼女はポカホンタスを着ていた。彼女の褐色の肌に、ポカホンタスの衣裳は本当によく似合っていた。

写真を撮ろう!と誰かが声をかける。シンデレラ、白雪姫、ベル、ティンカーベル、アリエルと言った白人プリンセスの中に、アクセントのようにムーランとポカホンタスが加わり、さながら最強アベンジャーズのようだ。多様性もばっちり。フィルムカメラで写真を何枚も撮る親たちの姿をよく覚えている。

それでも、私は、ティンカーベルが着たかった。本当に好きだったのはいつだってティンカーベルだった。今大人になってみれば、自分が好きなものを着れば良いのに、と思うかもしれないが、白人の女の子が見事にあの衣裳を着る様を見て、どうしても一歩下がってしまった。そんな自分に差し出された、アジア人用のカードに飛びつくしかなかったのだ。

それからティーンに入り、パンクバンドに夢中になった私は、強烈にディズニーへの興味が薄れる。ジャスミンの衣裳も、ムーランの衣裳も、人にあげたか捨てたかすら、定かではない。こうして、ティンカーベルの衣裳への憧れが消化されないまま、大人になってしまった。

つまり、「リトル・マーメイド」では、アリエルというすでに長年愛された白人の特徴を持つプリンセスを、黒人の俳優が堂々とスクリーンで演じる姿が、子どもたちにとって何より大事なのだと思うのだ。子どもたちを勇気づけるのは、黒人のために新たなプリンセスを生み出すことではない。あなたのために用意されたカードを切る必要はない。

幼少期の思い出を理由にこのキャスティングに納得しない大人が多いのは事実だが、そういった声を上げる人々はもう立派な大人になっている。実写映画の出来に納得しなくても、自分で自分の道を歩める。大事なのは、いつだって今の子どもたちだ。自分とは肌の色が違っても、目の色が違っても、なりたい姿になっていい、シンプルで強烈なメッセージを受け取る必要があるのだ。

同じく海外で他民族に囲まれて育つ自分の子が、プリンセスの衣裳を選ぶときに本当に自分が着たいものを選べるように。プリンスの衣裳だってもちろん良い。自分の人種や性別で、選択肢を狭めないように。そう願いながら、子どもと一緒に今日も映画を見る。



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