これまでの自分の歩み~折れない心⑥~
大学院を2年で終了し、大学院時代に通信制の事務のバイトをしていたご縁から、大学付属の茨城県の私立高校での日本史非常勤講師として、1993年4月から着任することになり、、とうとう自分の夢が実現することになりました!
その年は高校2年生5クラスを週20コマ担当することになったのですが、とにかく最初の授業の日は、本当に今でもその時の光景がはっきりと瞼に焼き付いて離れません。
「何年にどんな事件が起きた、何が制定された、そんなことよりも、歴史は暗記科目じゃないということだけ覚えておいてください。何かが要因で、大きな出来事が起こる。そしてその結果が現れる。その流れがまたしばらくすると不具合を起こしことの要因が起こり、大きな出来事が起こる。歴史はその繰り返しで、徐々に進化を遂げて今があります。」
そんな話を最初にして、「1年間、日本史の授業を受けて、あ~こんな人がいたんだ、あ~だからこんなことが起こったんだ、と頭の片隅に残ればOKだよ!」なんて話をしたことを覚えています。
基本的任は、学校での授業と予備校での講師と並行して13年間、学校や予備校の生徒たちの進路も含めて、30分前後のコーチングを述べ4,000人ぐらい重ねてきて、とても充実した仕事ができていました。
しかし、学校組織のコネクションの壁をまざまざと見せつけられる事態もありました。非常勤講師ながらも高校では毎年、国公立受験を約束させられてる特別進学クラスの3年生を当然のように任されてきた中で、専任教員へのお声はかからず(30歳を超えていたので条件外とされていました。公では)だったのですが、学校側が空手部を創設したいという思惑がある中で、40歳を超えてる空手経験者を社会の専任教員に採用したのです。
自分が好きで高校講師になったのですから、そういうことにあまり怒りが出るというよりは、筋が通らないことを教育現場でしれっとやられてることに虚無感を覚える感じでした。
そうこうしてるうちに、私も40歳を迎え遅まきながら、子宝に恵まれたこともあり、その時期にAO入試が主流になって文系の受験科目に社会科の必要性も下がりコマ数も減ってくる中で、私も家族のことを考え、好きなことをやらせてきてもらったので、自分の身の振り方も考え始めていました。
次年度に向けて、校長面接があるのですが、私は10年間以上責任あるクラスを無条件で担当を受けてきたので率直に校長先生に質問しました。「〇〇高校にとって、私は今後必要でしょうか?」校長先生は「もちろんです!必要に決まってるじゃないですか!」との回答。そこで私は「それでしたら専任教員として担当させていただくことはあるのですね?」と直球で聞きました。校長先生は急に眼をそらし「それは、、、年齢的にもできない話です」と。
「わかりました。私も教職がそして生徒が大好きですが、今年度でやめさせていただきます。お世話になりました」とあいさつをし、2005年3月末をもって高校を退職しました。
利用できる人間をとことん利用する。筋の通った説明ができない教員世界には正直未練はありませんでした。その後1年間は予備校の授業を精一杯取り組むことになりますが、2006年の4月には劇的な展開になっていきました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。次回は全くの畑違い業界へ!のお話です!
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