マッドでサイコな精神科医の話
いま身体性表現障害です
新しい心療内科へ通い始め、そこでは身体性表現障害という診断をもらって、自立支援や障害者手帳の申請、あちゃさんの保育園申込み等を行っています。
この病気は端的に言うと、心の苦しさや辛さが身体の痛みとなって現れる、というものです。
でもその前に通院していた心療内科では、わたしは「統合失調症」だと診断されていました。そこで交わした先生との最後のやり取りを残しておこうと思います。
溢れる優しさで迎えてくれたK先生
現在の住まいに越してからあちゃさん妊娠期間の途中まで、とある心療内科にお世話になっていました。
前に住んでいた家が火事になり転居を余儀なくされ、同じくして妊娠8週目で流産した自分は、家財道具が全くないがらんどうの新居で、布団もない畳の上で、煤で汚れた毛布1枚にずっとくるまって横たわり、天井ばかりを見つめて日々を過ごしていたときでした。
日中は光が眩しいので毛布を被り、時おり聞こえる外界の音や隣の部屋の水道を使っている水音さえ、うるさく感じてたまらなかった。
また、頭の中ではずっと思考の整理がつかず、絶えず自分が誰かと会話していて、答えの出ない、まとまりのない会話を止めたくても止められず、その声もうるさくてたまらなかった。
どうしようもなく、通いやすい場所にある心療内科を探して初めてその病院へ訪れたとき、K先生はわたしの話を聞いてから、しみじみとこう言ってくれました。
「この状態の中で今日はよくここへ来てくれましたね。あなたは本当に辛抱強く、ききわけが良く、そして思慮深い。あなたほど自分の苦しみについて考え抜いている患者さんはほかにいませんよ」と。
その言葉を聞いて思わず涙がこぼれました。全面的にK先生はわたしの苦しみを受け入れてくれたと感じたからです。
なお、転居前に通院していた心療内科では双極性障害の診断を受けていて、10種類近くの薬を処方されていました。
その頃のお薬手帳を見た先生は驚いて、
「こんなに大量の薬をずっと飲んでいたの?!これはもう今にも死にそうな人が緊急入院してくるときに投与するぐらいの量ですよ。これほどの量を処方し続けるなんて信じられない。同じ医者として、わたしから謝罪させていただきます」とも言いました。
この先生なら大丈夫、そのときはそう思いました。
そして、光と音に過敏、頭の中で誰かと会話をしている、という症状から“統合失調症の気がある“として薬を処方され、それからあちゃさんを妊娠するまでのあいだ、通院していたのです。
再訪
今年の夏の終わり頃から、どうしようもない身体の痛みの悪化、また頭の中の会話や光や音に過敏になり始め、抑うつ状態も出てきたので、しばらくぶりにその病院へ再訪しました。
産後から身体の痛みについては近所の内科へ通っていましたが、心の問題については心療内科を受診するよう、内科の先生からも促されたからです。
部屋へ入ってまずK先生へお詫びしました。あちゃさんを妊娠してから、急に通院をやめてしまったことについて。
そして今一番つらい症状について相談しました。最も優先して改善したいのは身体の痛みとそれに伴う抑うつ状態です。
K先生はわたしの話を聞いたあと、ゆっくりとこう言いました。
「もう予想通り過ぎて笑える」って。
たまに皮肉を交えた冗談を言う先生であることは知っていたのでわたしも「予想通りですか」と自嘲気味に返しました。
それからK先生は続けました。
「身体の痛みなんて知ったこっちゃないよ。だからね、あなたは統合失調症なの。わたしが興味あるのは統合失調症の薬を出してあなたがどう変化するか、それだけ」
ちなみに統合失調症の主たる症例、頭の中で誰かと喋っている、これはわたしの場合、メインで話すのは自分自身で、相手は時々相槌を打つか同意して話の続きを促すくらいです。
話し相手に命令されたり反論されたり批判されたりということは今まで一度だってありません。相手は聞き役オンリー。
これは統合失調症の診断基準において伝えるべき重要な内容に思えたので「でも、」と説明を試みようとしました。
するとK先生はわたしの言葉を遮って「ここであなたと議論するつもりはありません。あなたは統合失調症、もしくは解離性障害」
でも、とか、そうではなく、と話そうとするとため息をついて「だからね、議論したくないんですよ。同じこと何度も言わせないで。わたしも暇じゃないから」と必ず言葉を遮られてしまいます。
わたしが補足しようとすることはK先生にとって、なんでも反論や議論と受け取られてしまうようです。
どう切り出せば伝わるか必死に言葉を探しつつ、ぼんやりとしか認識していない解離性障害というものについて、どのような病気か説明を求めました。
「簡単に言えば、頭の中に与党と野党がいて議論したり、立場が入れ替わる状態かな」
頭の中で複数の自分が対立することは一切ない、と伝えたかったけれど、何を言ってもK先生は聞く耳を持たないだろうと、もう何も言い返せませんでした。
しばらく沈黙が続いたのち、
「口先だけで謝っても意味がないでしょう。わたしの治療方針に同意できないなら二度と来なくていいですよ。どうぞお引き取りください」K先生はにこやかにそう言いました。
わたしは少し考えてから「わかりました、ほかの病院を探してみます。今までお世話になりました」と、席を立ちました。
退出しようとドアノブに手を掛けたわたしに、K先生は窓際に立って外を眺めながら「ねえ。人を信じるってとても大事なことだよ。そう思わない?」振り返って穏やかな笑みを浮かべ、そう尋ねてきました。
「……信頼関係というのは、お互いによく理解し合った上で成り立つものではないでしょうか」
なんとか絞り出した精一杯のわたしの返答に、呆れたように鼻で笑いながら「“関係“じゃないよ。あなたがわたしを信じるか信じないか、それだけじゃない」
K先生はそう言い放ちました。
ドアを閉める直前、「あーあ、残念だなぁ」と嘆く声が奥から聞こえました。
新しい先生が全否定してくれた
そののち、いつも困っているときは寄り添って力になってくれる友人がいろいろと調べてくれたおかげで、現在通院している心療内科の先生に出会うことができました。
新しい先生はわたしが統合失調症であることを全否定しました。
「毎日たくさんの患者さんとお話しているけれど、nicoさんと話していて統合失調症だとは微塵も思いません。
きっと子供の頃から君は親とか家族とか近しい人に相談できずにいて、心の中で話し相手をみつけて自分で解決しようとしてきたんだろうね」
その先生はわたしに身体性表現障害という診断をして、その診断を基に、並行して通院している内科と連携を取りながら薬の処方や各手続きのための診断書を作成してくれています。
とても頼りになる先生です。
診断はパーソナリティの一部となる
ここで断っておきたいのは、自分が統合失調症だと診断されるのが嫌だとか、認めたくないと抵抗しているのではないということ。
日常生活を送る上で困っている症状についてきちんと医師に把握してもらい、診断理由とその処方薬について納得できる説明をしてほしいだけ。
ちゃんと納得さえできれば、統合失調症でも解離性障害でも、受け入れる準備はある。
医師の診断する病名によって、その人の重要なパーソナリティの要素の一部が決まってしまう。
だからまず、自分自身が納得してその病気を受け入れることができないと、どんな症状も快方に向かわないとわたしは思うのです。
なお、光や音に過敏であったり、共感力が高く人の気持ちに感情移入し過ぎてしまう傾向であるのは、おそらく自分はHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン:Highly Sensitive Person)なのかなと感じています。
外からの情報にも過敏で神経を張り詰め、かつ身体を動かしていないときでも頭の中では絶えず会話や思考がとめどなく渦巻いているのは、常に緊張状態にさらされ、一時も心身を休めることができません。
緊張状態がずっと続くとどうなると思いますか。
そんな緊張状態に置かれている自分を周囲の人が哀れみや畏怖の眼差しで見ていると感じたらどうなると思いますか。
きっと周りの人すべてが自分を悪く思っているという被害妄想に陥ったり、その延長で幻聴や幻覚が現れることもあるような気がします。
そして極度の緊張状態が続いた先は何があるか。
おそらく思考停止です。
よく眠ることもできず、起きているあいだずっと脳みそフル回転、それは本当にひどく疲弊するものだから、
疲弊して心も身体もすり減らして思考も感情もシャットダウンし、意志をも捨て去り、
「無」になる以外に方法がないです。
わたしは医学も心理学も詳しくないので専門的立場からの意見は何も言えないけれど、
過敏で緊張状態であるが故に統合失調症との診断をくだされ、その系統の薬を投与され続け、本来の自分を取り戻したり掴むことができないままに生涯を過ごしたり終えたりした人が、
かつては今よりもっとたくさん居たんじゃないかな、と考えます。
K先生との最後のやり取りを思い出すと、不気味で恐ろしくて、今でも心底ぞっーとするんです。
(出典:
ヘッダー画像/映画『シャイニング』
フッター画像/映画『カッコーの巣の上で』)
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