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新事実に驚いた報告書 (1/6)セクシー田中さん問題

「人の命」と「続作の完成」が永遠に失われる事になったセクシー田中さん事件。両企業(TV局,出版社)の報告書を読みました。新事実開示は良いですが、結局「保身」しかない。特に個人事業主(脚本家・原作者)を守る気はない。守るのは、自社組織>自社の社員>取引先(他社と個人事業主)>>他者社員と他社が取引する個人事業主でした。結論として、組織を罰する事で全ての命を平等に守り、企業利益より作品文化を尊ぶ第三者の客観報告が必要だと思います。

いろいろ疑問だったこの事件ですが、新事実開示で下記3つの問いに自分なりの答えが見えた気がします。

・問1:原作者最後の言葉の意味は?〜最後の言葉「攻撃したかったわけではなくて。ごめんなさい」をどう受け止める?〜
・問2:原作者最後の瞬間は?〜他者に優しく寄り添える作者なのに、なぜ自死を選んだか?〜
・問3:原作未完への悲憤を、人はどう昇華すれば良いのか?〜関係者個人を責めたくなる自分と、どう向き合うか?〜

以下では、これらの問いを考えながら報告書を読解していきたいと思います。

本件で「ネット炎上=主犯」という言説を見かけます。もし原作者投稿が「10閲覧、1いいね」だったら、あるいはもし99%が良識・善意のコメントなら、不幸は起きなかったでしょうから、たしかに炎上が一因を担っています。しかし便所の落書きであるネットは、万人の法廷でもある。後者の意味で炎上は「陪審員の声」です。ネット陪審員は脚本家投稿で脚本家を味方し、続く原作者投稿で逆に原作者を味方した。この状況で、勝者は原作者でした。法廷の正常機能としての「敗者への反論(または謝罪)要求」を、残念ながら踏み潰す形で、脚本家への誹謗中傷が巻き起こりました。

この炎上を受け、原作者は関係者に「こんな騒ぎにしてしまって申し訳ありません」とLINEしますが、そのグループLINEも全部消します(TV局報告書p.44)。また投稿翌日(1/27)には、原作者の意向を受けた担当編集は「予期していなかった個人攻撃となったことを詫びるコメントを出して投稿を取り下げることになった」と出版社に報告しますが、それに対し出版社側上司は「すでに全社マタ―」とし削除を制止するよう「強く指示」します(出版社報告書p.55 )。その後出版社は原作者と音信不通になります(同p.56)。

音信不通となった後、原作者は独断で投稿削除して「攻撃したかったわけではなくて。ごめんなさい」と投稿を残し(1/28)、翌日遺体として報道されます。勝者の原作者のみが謝罪し、しかも死亡したのですから、ネットは大炎上。誹謗中傷は論外ですが、ネット上のTV局への説明要求の嵐が、今回の報告書を産んだとも言えます。

その報告書は両社とも「保身」でした。脚本家と原作者の投稿がそれぞれ、両社にて『事前打ち合わせ』されていた事実(出版社報告書p.50,75に脚本家が投稿する事を両社が察知していた事、TV局報告書p.43に原作者投稿の下書きが午前中に出版社からTV局に共有された事がそれぞれ記載されています)を何故か詳述しません。しかも結果的に放置した事実について両社報告書は自己弁護あるいは無視しています。あまつさえ、TV局に弁護士立てて反抗していた脚本家に対してはTV局報告書p.73で考察し、意訳すると『脚本家は「投稿は軽率だった」と後で言うぐらいだし、会社が言っても、投稿前の中止や投稿後の削除には応じなかったよね』と、個人批難して組織を守っています。結末は、出版社は原作者と音信不通(出版社報告書p.56)、TV局は脚本家と音信不通(出版社報告書p.52「連絡しても、会えない状況」)ですから、異常です。

「人の命」が大切であればこそ、諦めてはいけないと思います。諦めず考えると、投稿削除し謝罪した原作者が、その後なお生存する「削除後生存ルート」さえあるはずです。

その考察を両報告書は放棄しますが、この最後の瞬間からでも、出版社上司として、担当編集者として、TV製作者達として、そして脚本家側プロダクション関係者として、原作者を救う手段は本当に無かったでしょうか?最後の引き金を引いたのが誰かという犯人探しではありません。渦中で心労激しい当事者達の代わりに第三者が、それぞれの立場でそれぞれの瞬間で原作者を救う解決策を考察する。その策を次に生かしてもらう事で、当事者達の前進を促す。それが第三者報告に求めたいことです。

この「削除後生存ルート」が何故絶たれたか。報告書から考えたいと思います。

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