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自給自足の研究 

女は子供を愛し、男は女を愛した。

自給自足の勉強で和歌山へ行った。根本には、

現金収入に依存しないライフスタイル

を学びたいということがあった。

昔は全国各地で自給自足的な暮らしが営まれているはずであり、現代生活は、そうした過去の姿へ、何らかの無理のない形で帰って行かざるを得なくなるのが、

 脱石油エネルギー

ということだと思う。

100年前の江戸時代に帰って行かないまでも、何割かでも現金収入に依存する度合いが少なければ、生活は成立っていくのでは?ということだ。そのソフトランディングな姿というのは誰もが求めている姿ではないだろうか?

今回は和歌山色川地区で、野菜の自給自足と卵の販売、お茶の販売で生計を立てているお宅へお邪魔した。

自給自足の完成より、

 環境負荷ができるだけ小さい暮らし

をほどほどで求めて、このライフスタイルになったということだった。のでガチガチのエコロジー信者がきたら、”ゴミとか燃やしてるじゃーん”とか、ツッコミが入るかもしれないし、安全な食べ物信者が来たら、”これ添加物、満載よね~”とか、ツッコミが入るかもしれない。エコロジーな生活への希求度や到達度よりも、今手に入るもので、なんとかやりくりする、ということが優先されているライフスタイルだった。

現代の経済システムの中で、成り立つならば、それが一定のモデルとなるので、それで良いのではないか?と思った。

ただ感じたのは、エコ型ライフスタイルの追求よりも、

 子供たちへの愛と妻への愛

だった。人間にも色々なタイプがいると思うが、ある特定人種は現代社会では生きづらい。

例えば、私は赤ちゃんの頃からアトピーがあり、都会のOL時代に苦痛だったのはお化粧。ストッキングも嫌いだし、ハイヒールは苦しいし、社食やコンビニの弁当では体調が悪くなるし、ダニアレルギーだし、デザイン事務所勤務は、たばこの煙であきらめたほど。アメリカのサンフランシスコに住んだことがあるが、まったく日本のOL生活で必要とされるギア…お化粧、パンスト、ブラジャー、ハイヒールとは無縁で幸せだった。

日本では、とある企業のロボット開発部にいたのだが、男性と同じ作業着で済ませられ、お化粧しないでも仕事で何も評価に響かないし、靴は安全靴だし、どうせ作業着に着替えるので、通勤はジーパンでも構わないのだった。

しかし、その後キャリアップで外資で営業したり、商社で新事業開発の仕事をしたりすると、そうもいかなくなり、幸福度が下がった。

ヨガのインストラクターの仕事をして幸福度が向上したのは、こうした、

 ”会社員スタイルに染まらなくても良い”

という部分のためだと思う。もちろん、田舎のおばあちゃんでも、お化粧こってりの人はいるわけなんだが。

今回、訪ねた色川での暮らしは、

 社会規範度外視

というのは、あまりに当たり前の事であり、それぞれが好きに自分の生き方をつかみ取っていく。

8歳の男の子が、焼きそばのハーフアンドハーフを大事に抱えてきた。一般にエコ生活者というのは加工食品を食べない選択肢をしているものだが、このご家庭では、子供に自由と選択が任せられているようで、8歳でも自分の好きなものを買って来て良いらしい。前の晩から、袋に書いてある作り方を見て楽しみにしている様子だった。(ちなみに朝ごはん…笑)

しかし、翌朝お母さんがお湯をカップ麺に入れてくれた時にシェイクしてしまい、子供がムッと。明らかにお母さんのハートが、パリンと音を立てて割れた音が聞こえた。

「ごめんね、水をよく切ったほうが良いかと思ったの」とお母さんが言っていたが、子供の方は、聞いていない。

実は、最近、思うところがあってインナーチャイルドの癒しに取り組んでいるが、この事件は逆インナーチャイルド事件というか、子供に親がインナーチャイルドを作ってしまうというより、逆になっていないか?と思った。

子供の態度で親の方が心の傷を作っているかも?

この様子を見て、私も母に同じような気持ちを味合わせる子どもだったのかもしれん、と思った。子供としては、好き嫌いがはっきりしており、結構パワーある系だったかもしれない。

課題?は、散らかり放題の家問題

この家の二人の子どもたちが自由で気ままな生活をしているのが、印象的だったが、片付けの習慣づけのほうは、その自由気ままさと引き換えになっているようだった。

しかし、私でも、心のままに生きる素直さと整理整頓のスキルでは、整理整頓スキル構築を後回しにするだろう…。心のエネルギーがまっすぐなのが大事だ。だが、共同生活上の不便があるくらいな深刻度の混乱ではあったかもしれない。

ものすごくモノが多かったので、管理できる以上のものが溜まっているという点では都会と同じだった。

都会でミニマリストして、脱モノを達成したような人から見ると、自給自足生活と言っても、モノに振り回されているでしょ、とツッコめるかもしれない。つまり、モノの豊かさは満載かもしれない。

余り物を貰って、大体の生活必需品は何とかしているそうで、このような限界集落に近い過疎の町ですら、それだけ物の豊かさが浸透しつくしている日本社会なのだと思った。

まぁ、モノが多いことは罪ではないし、自給自足生活の足かせになるようなものでもない。

ご主人が夕飯時に笑っている奥様の顔を満足げに眺めていたので、”俺の幸せは、この人の笑顔”と、思っていることが伝わってきた。

人の目を気にしないで済む生活は、現代社会では、なかなか得難いものだ。

とくに昨今マスク警察が闊歩している都会では息苦しい。

一般的には、現代生活は、お金に拘束されて、ありのままの自分の姿でいることが許されない。
(例:OLしていたら、ストッキングハイヒールでしょ、みたいな)

そのような社会規範にとらわれることなく、奥様オリジナルの幸せを生きている、そのサポートを俺は出来ているんだ、という満足感が現れた表情だったと思う、旦那さんの満足げな顔は。少なくとも私にはそう見えた。

さて、自給自足だが、勉強中の訪問者の私のために、

 ニワトリの屠殺と解体

をやってくれた。これは別途、手順を書き留めたいが…。おおざっぱな感想として、

 自分らしいあり方で生きるために何を引き換えにしないといけないか?

という、視点でみると、この

 屠殺の習得

かもしれません。特に経験がない都会生活上がりの人にとっては。乗り越えるべきハードルはここですよ、ってことです。

私は登山から自然の中での暮らしに入り、山小屋暮らしなども経験したので、里山生活自体は、そこまで大変とは感じない。が、屠殺はやはり敷居が高く、鹿肉、猪肉など、貰う側で、提供する側に立ったことはない。

しかし、例えば、大根を間引くのだって、自分の命をつなぐための他者の命を絶つということには変わりがない。人はそういう風にして、生き続けてきたのであるし、そこでビビってはならん、と頭では思うが…。

イワナを渓流釣りで釣り、今夜のおかずにして食べれるとか、女だてらにチェーンソーが使え、伐採することが出来て丸太が作れるとか、その辺のアウトドアスキルとは違う、大きな一歩が

 ニワトリの屠殺

にあるのでした。屠殺ののち、羽をむしられて丸裸になったニワトリさんは、お魚屋さんで丸ごと一匹の魚を買って来て卸すのと同じだし、パリのマーケットにもぶら下がっていたりするスタイルだし、解体の方は、料理の一部なので、私でも参加することができました。

近所に川があるのは超便利

ニワトリを飼うことは、規模的に大きくして卵を販売するしないは別にしても、家庭で家族の人数分くらいを飼っても、良質なタンパク源として有効な解ですが…特に大豆の実りがイマイチな地域では貴重な蛋白源ですが…捌けないと最後まで命を有効活用させていただくことにならない。

しかも、きちんと一発で殺せないと動物が苦しんで、生きようとしてしまいます。そうなると、人間の情として傷ついている動物を助けたいと思ってしまい、食べるという目的と相反する葛藤を抱えてしまうので、

 一発で屠殺できるスキルというのは、肝心かなめのスキル

です。よく切れる刃物も同様です。この辺は、若い男性居候君が失敗してくれて理解が深まった。

ということで、お化粧とストッキングをはかない生活のためには、屠殺技術が必要なのか…と思ったわけでした。もちろん、これは苦手だから誰かに頼むということも、まあ、ありうるわけで、現に私の知っている卵農家では、老鶏は廃鶏にして食べていない。しかしそこに納得の出来なさは残りますね。完全な循環を目指していきたいが…ということです。

ご夫婦が大事に守って行っているものは、個性であり、自分らしく生きる力なのだろうと思った滞在でした。

大人が守れないものは、子供たちにも守ってやれない。



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