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昭和のgifted - 9 そこにある価値

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倫理観のぶっ壊れてる恋愛感の話は次回、なんていってたけれどもそんなことよりも書き殴りたいことができたのでドロドロしたゴシップ記事を楽しみにしてたであろう人にはちょっとお預けをくらってもらう。

見出しでキャッチーさを取れるゴシップよりも感情が溢れて書き連ねてしまうことの方が私が私である所以だし、今回のテーマとの親和性が高い。

私は写真家だ。

とはいえ、それだけで食えているほど高明な者ではない。
私の知り得る範囲の人が、私の写真を好きだと言ってくれて、撮ってもらえたら嬉しいというレベルのものだ。

もちろん、対価をいただいての撮影にも対応することもあるが、著名で高額なカメラマンとはまだまだ程遠い。

いろんな角度でいろんなシーンの撮影をしていて、見る人が見れば匂いや温度を感じるとか言ってくれる人もいたりするし、私でなければ撮れないとも言ってもらえることもある。

過集中になるくらい撮ることに意識を向け、こういうものを残したいとシャッターを切ってはいるが簡単に写真を撮れるこの時代、撮れたものでしか判断されない分野ではある。

こだわりを持って写真撮影に挑んでる人たちにはもの凄く褒めてもらえている。

だが撮られている側の人たちにはそれほど「私でなくてはならない」という意識を持ってもらえていないことも多い。

謙虚であることは尊いが「時間を割いて撮影に挑んでくれる人はみな平等に有難い」という認識の範疇の撮影者から抜きん出ることが未だにできていないような気がする。

息をするように簡単にやってのけること、それをやってのけることにどれほどの思考や配慮や工夫がこられているかなんで誰も知る由がない。

だから見出してくれる人がいてくれたのなら、しなくても良かったことを無理してまで解説する必要がある。

簡単に思いや感情を表現できる時代だからこそ、口数が多い人ほど人を牽引してしまう。

それがわかっているからこそ自らあーだこーだいいい訳をしたくない。自然体で勝負したいし、それで評価が得れているからこそ蛇足は無用だと思っている。

しかし、時に解説や説明を必要とされ、自然に振る舞っているだけなのに、自分の考えをわざわざ解説させられて、なぜそうするのかの説明をさせられいるにも関わらず、聞いた人はなかなか理解してくれないのは正直疲れる。

仕事においても、写真においても、その道で本当に努力している人や思考を巡らせている人たちには本当に一目置いてもらえる。その一目から応援してくれる人はいるのだが、そうした人達の中から嫉妬が生まれることもあるし、互いに高め合うために私を支える側に回ってくれる人はいない。

それなりに努力している人たちは支える側に回ってくれたりもするが、息が続かずいつかいなくなる。
圧倒的な壁を見て心が折れるらしい。自分にはできないと。

美大生に言われた言葉が今でも胸に突き刺さっている。

「みんな一生懸命考えて、努力して、知識を学んで写真を撮って、それでも撮れないものがあるのに、何も考えていないまま自然体でこんな写真を撮れてしまう人がいるからアートの世界は難しい」

何者かになりたくて努力している人の心を私は知らず知らずのうちに折っている。それがギフトを得る代償なのだとしたら、別にそんなものなくても良かった。

私にだってできないこともあるし、むしろできないことの方が多いからそんなに悲観しないで欲しい。
ただ普通にしてくれればそれで良いだけなのに、普通の人には理解できない言動が多いから普通に接してもらえない。

本当に私がギフテッドなのだとしたら、早く誰かに見つけてもらいたい。

そのままで良いと、私の自然な行動で誰かを傷つけてしまっていたとしても、私は悪くないと、私が撮るもの、作るものがただ好きだから撮り続けてほしい、創造し続けてほしいと私のモチベーションを上げてくれる人がいてくれたら私はもっと凄いものを作れるかもしれないし、立ち止まったり悩んだりすることから解放されてもっと意欲的に創作に励めるはずだ。

私の本当にギフテッドなのだとしたら、そのギフトはおそらく、こうした考えの元に基づいて誰かがそこにいた軌跡を残す撮影や、こうしてNoteに刻む文章を使った表現力の二軸だ。

私が撮影をしたものを見て何かを思う人がいて、私が書いた文章で何かを思う人がいてくれさえすれば、私は創作に迷いなく挑める。

ちなみに、私の記事に使っているヘッダー画像は私がスナップ撮影しているものを使っている。
些細なことではあるけど、ヘッダー写真がなんか好きだなぁとか思ってもらえていれば写真家冥利につきるというものである。

追記:誰にも見つけてもらえていない。本当はそうではない。見つけてくれた熊さんもいた。寄り添ってくれる人もいる。それでもどうしても何かが私には足りていないと感じてしまうからこの孤独感を突きつけたくなる。今、誰かに側にいて欲しいと切に願う。

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