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昭和のgifted - 7 自己肯定感は、ない

前回のお話しはこちら


私がギフテッドかもしれない、そう思ったのは今から5、6年前。鬱かもしれないと心療内科に駆け込んで「脳波は鬱のそれだけどこの脳波を見せる人たちはあなたのようになれない。恐らくIQが凄く高い異質な存在なのかもしれない」ざっくり要約するとそんな感じのことを言われて自分はやっぱり異質なんだと、異質で良いのかもしれないと認識した。

この経緯に関して気になる方はこちらをどうぞ。

私は異質だから受け入れてもらえなくても当然で、それでも羨望や妬み嫉みを向けられても仕方がない。

そうした諦めの良さを身につけて私はかっこいい私を演出する。

哀しいかな私が思うような包み方で私を包み込んでくれる人にはまだ出会えておらず、同じようにとは言わないけれど、ただ私がご機嫌でいられるように環境を整えてくれるだけで良い。

ただそのことが尋常ならざるレベルで難しいらしい。

私は特段自分が特別な人間だとは思っていない。周りから特別だと言われて、そうなのかもしれないと受け入れているだけなので、世間の自称ギフテッドの人たちの様々な判別方法や知識を元にしたエピソードを見かけると違和感とともに少し恐怖を感じる。

もしも私が本当にギフテッドなのだとしたら普通のことが普通にできない私を受け入れてほしいだけ。

世間一般の特別なんかじゃなくて、ただ普通に誰かの特別になりたいだけなのだ。

ラベリングされることに興味はないし、私はギフテッドかもしれないと把握したその日から、今日までのラベリングの歩みがなかった時代を過ごしてきたこともあり私はギフテッドの分類に興味もないし、知識もない。

私が私らしくいれること。

居場所を求めてただ彷徨っているだけで、見つかったと思えた居場所は桃源郷のようなものでしかなく、ただ空気に揺蕩うような存在だ。

見つかったと思った居場所すら些細な衝突や違和感で全部ぶち壊して逃げ出してしまうのは、追いかけてきてまで繋がっていてくれる人がいなかったからだ。

周囲から一目置かれ、時折思い出しているよと言われても、そういう人たちが私の横にいてくれることはない。

私に寄り添おうとしてくれる人たちは皆一様に私のことを一目おき、自分とは違う才能がある人だからと思うのかどうかはわからないがなぜか距離を置かれてしまう。そんなことは思い過ごしかもしれないが、私からすれば遠くに感じる。

私が生まれた昭和の時代から、平成令和にかけて少しずつ世の中は変わっていって自己肯定感を持てる人が増えているような気はしている。

ただ時代の流れの中で否定されることが多かったり、一目置かれているからか人との距離を感じる私からすると自己肯定感を高くもって自らギフテッドと称して高説を述べるのは些か難しい。
違和感を感じたからこそ私が"かもしれない"可能性にかけてケーススタディを残してみているがこれですらただのやばい奴なのかもしれないと不安になる。

否定する文化の中で育たなければああも奔放にいられるのだろうか?

だとしたらギフテッドかどうかは問題なくて、否定されずに育つことこそが素直さを身につけ人に寄り添える姿勢を育むような気がしている。

規律を重んじる日本社会の中で、異質と思われる存在を受け入れ肯定できるのはバイアスを持たずに素直に相手に接することができる人。ただただそんな人が増えてくれさえすればギフテッドに支援など必要ない。

調子の良いときは強い人間でいられる一方で、ストレス過剰になると生死の境を彷徨うようなハイリスクハイリターンな生き方しか選べなかっただけである。

なのに「自己肯定感がない人があたなに嫉妬するのは仕方ないよ」となぜか人は私のことを自信満々な人間だとラベリングする。

私に自己肯定感は、ない。

自己を肯定できるような、自己を肯定してくれるような協力者がいまだに現れてくれないからである。

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