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昭和のgifted - 12 鏡の中のギフテッド

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※ちょっとセンシティブなので有料コンテンツにしてます。

先日、とある投稿に「受け入れられたいなら相手を許容した方が良いんじゃない?相手に対する許容する姿勢が苦手なのかも」的なコメントをいただいてなるほど、私の許容量の範囲ってそこはかとない側面と、少しのズレも許せない部分があるな、とうっすら自覚していたことを指摘いただいたので思うところを書き綴っていきたい。

敵意を持って挑まれたり、悪意を感じない限り、私は基本的に人に寛容な方だと思っている。

寛容に受け入れてもらえなかった過去があるからそうありたいと願っている。

万が一私がギフテッドだとしても、一般的に普通と呼ばれる、または認識している人たちよりも許容量が膨大な可能性はあるが許容範囲を超えれば決壊する。

褒めてくれる人のことは好きになるし、妬みや嫉み、敵意を向けてくる相手に対してはそれ相応の感情を持つ。

ギフテッドは基本的に博愛主義らしいし、正義感も強いらしいので、基本理念となる道徳や倫理感に属した正しさのもと人に優しくできると思ってはいる。

ただ、私が育ってきた時代や環境が私に影響を及ぼして防衛本能や過去のデータベースから導き出されるであろう結果予想をして自分の中で判断をする。

ギフテッドかどうかに関わらず自己を肯定してもらえる環境や恵まれた環境において育てられたなら人を妬んだり嫉んだりする可能性は極めて低いと思う。

だから大原則として生きとし生けるものに優しい感情を向けるくらいの本能的な感情は持ち合わせているつもりで、自分がどんな境遇におかれても誰かを妬んだり嫉んだり少しくらいしても良いんじゃないなと思いながらできないでいる。

私が決壊したときは全世界に向けて憎悪や敵意や妬みや嫉みに囚われる瞬間があるのは事実だ。

それでもそんな感情を持った自分を責めて悔いてそういう感情を作った相手のことを慈しむことしかできない。開き直ることが苦手だ。

忘却の彼方に捨てさることができる相手はそれまでの関係性が築けていなかっただけのことで、一度関係性を認識してしまった人には憐みと慈しみと、相手にとっては不必要といわれる感情を持って心配ごととして残ってしまう。

私のことが好きだという人にこう言われたことがある。

「木春さんは嘘はつかないし、いつも正しいから、本当に正しく中立でいるために孤独を選べる強さもあって、だから木春さんと話してると取り繕おうとしてる自分が全部見透かされて暴かれてしまう感覚があって、それが凄く好きなんです」

私だって嘘はつく。いい加減なことも言う。
でも私の頭の中の正しさって人間の本質として突き詰めたら恐らく正しいことが多いんだろう。

優しい嘘を嘘のままにできる器用さがなくて、突きつけてしまうことで相手を傷つけたことも多かった自覚はある。

だから怖がられたり突き放されたりすることが多かったが、自己と向き合い悩み、葛藤している人ほど私のことを好きでいてくれるらしい。

自分に嘘をついている人にとって、ギフテッドは写鏡だ。

目を背けたいことを突きつけてくる恐ろしいもの。

ただそれは、何かから逃げようとか取り繕おうとする人たちにとって恐怖とか畏怖を勝手に感じてしまうだけのことであって、私としては追い込みたいとかそういうつもりは毛頭ない。

私が正しくありたいがためになぜ取り繕う必要があるのか?の心理を知りたいだけなのだか、そういう理解への興味関心について理解してくれる人は少ないようだ。

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