「silent」は言語学習者必見ドラマだと思う。

フジテレビ木10ドラマ「silent」、めちゃくちゃ面白いですね。私は推しの風間俊介くんきっかけで見ていますが、ほんとに見てよかった。

さて、一応英語を学ぶものとして、このドラマが捉える「言葉」「文化」ってすごく普遍的なものだなと感じているので、そういった視点で「silent」1-6話の感想を書いていきたいと思います。

※ドラマの感想もありますが、核心を突くようなネタバレはないので安心してね!寧ろ観てない人はぜひ観て欲しい。

あ、あと風間俊介くん出演の「フクチッチ」手話回で学んだことも書いていきたいな〜と思います!

フクチッチ手話回めちゃ面白いよ!

「日本手話」という言語

当たり前なんですが、手話って言語なんだというのをこのドラマを見て再認識しました。手話のイメージといえば「翼をください」で歌いながらやったなあとか、振り付けに取り入れられることがあったりとか、そういう「身振り手振り」としての使い方でしか触れたことがありませんでした。多分そういう人も多いんじゃないかな。

でも、フクチッチで実際にろう者が使っているのを見たり、ドラマの中で日常の中で使っている様子を見て、知識としてあった「日本手話という一つの言語」というところにやっと身を持って?体感して?百聞は一見にしかず?という感じです(表面的な理解から一歩進んだんだなあと思ってください…)
そこで思い出したのが、「手話話者が手話を見た時、脳の言語処理部分が活性化する」ってことです。本当に身振り手振りだったら空間認識の部分が反応するよねっていう。同じものは見つからなかったのでそんなようなの書いてあるサイトを貼っておきます笑

これを見ると、脳の処理のレベルで言語なんだなと改めてわかります。

そういった知識は大学で学んでいたものの、そもそも、日本手話と日本語対応手話があるのも知らなかったし、日本手話は日本語と文法が異なることも知らなかったので、ドラマを見ていて言語学習者としては「面白い語順!!」と感動してます笑 日本語英語スペイン語(語順英語とそこまで変わらない)しかやったことないから、疑問詞が後ろにくるのすごく面白い。

言語が違えば文化も違う

「フクチッチ」で印象的だった言葉の一つが、ろう者のアナウンサーさんの「私たちは話す言語が違うので、外国人だと思って接してくださいね」という言葉。

確かに、手話は表情も含めて表現する言語だから、日本語話者よりも表情豊かだし、言語の特性上、日本語よりも具体性が求められたりもします。また、翻訳や文字化で言葉の意味は通じるとしても、スムーズにコミュニケーションができない場面はドラマの中で見かけます。

ドラマを見て思い出すのが、以前ボランティアで小学校に行っていた時のことです。

私は英語のクラスの補助を行うためにALTといたんですが、私が英語で喋ってると、他の先生は不思議そうに遠巻きに見てるんですよね笑 言語が分からないんだから当然と言えばそうなんですが、違う言語で話してる人って壁を感じるんだろうなと思います。
またALTも日本語があまり喋れない方だったので、授業外のちょっとしたこと、例えば日本語で雑談をして笑っていた時、「何の話?」とたまに聞いてくることがありました。多分、今まで聞けなかったのかなぁと。

今は翻訳アプリなどもあるから、言語が違くても別に話せるんですよね。でも、その手間を取らせてしまうこと、伝わらないかもしれないことが心理的な壁になって、コミュニケーションが中々取れないんだなぁと実感しました。

ここからやっとドラマの感想笑

例えば想と湊斗の紬の部屋での会話。湊斗は想に話してるつもりだけど、想ではなくスマホに向かって話していたり、またアプリが認識できない距離で話してしまったりと、翻訳ができる環境にも関わらず、うまくいかない様子が描かれていました。

「耳が聞こえない」「障害がある」「気を使う」ということもあるとは思いますが、先程の例と同じように、例え音声アプリを使っても、「聞こえる人」と「聞こえない人」は同じように話すことができないため、タイムラグが生まれたり、伝えたいように伝わらなかったりして、コミュニケーションが億劫になってしまい、そこが心理的な壁となってしまうのではないかと思いました。

つまり、「日本語」「日本手話」は言語であると共に、コミュニティであり、アイデンティティなのだなと思います。

想が奈々とその友達の手話に戸惑ってしまったのも、高校までの友達を全て断ってしまったのも、両方のコミュニティの中で揺れていたからではないかなと思います。「中途失聴者」という立ち位置で、悩んだ末に「聞こえない」人のコミュニティに居たいということが、想が日本手話話者となり、奈々を沼らせてしまう(誰も悪くないんだよ…)ことに繋がったのだと思います。

また、「聞こえる人」「日本語話者」「日本手話」コミュニティに属すのが春尾先生。彼も「聞こえない」コミュニティに入れないことで「日本手話」コミュニティに入りきれないために揺れている人物かなぁと思います。

目を見て話す喜び

想とみんながコミュニケーションを取る時、色んなやり方があることに気付きました。

手話、LINE、音声アプリ、手書きの文字。ここで違うのが、「タイムラグがあるか」「目を見て話せるか」だと感じました。

タイムラグの話は先程したので1回置いておきまして、まずお互い手話で話す時、そりゃ絶対顔見なきゃ話せないんですよね。多分7話以降手話での会話シーンが増えると思うので、それ以外についても触れようと思います。

音声アプリだと、聴者が気軽に使いやすい一方、聞こえない人は1回1回画面を見なければならないです。先程の想と湊斗の場合、初めに会話した時、湊斗は画面に向かって話し、想もそれを見て話していたためあまり目線が合いませんでした。ここは湊斗がまだ耳のことを受け入れることができず、想の目を見れなかったのもあると思います。一方で、6話の焼肉のシーンではスマホを2人の間に置き、お互いできるだけ目を合わせながら会話ができるようになっていました。仲良く話せて良かったよ…。

一方、音声アプリの「もう好きじゃない」は結構強く響いたんじゃないかなぁと思います。紬は言って、想が表示されるのを画面を見て待って、あの1文が出てくるっていう。

そう考えると、文字だとしても、5話の想のスケッチブックはより伝わりやすいものだったのではないかなぁと思います。手書きの文字なのはもちろん、1枚めくって目を合わせ、反応を確認しながら進んでいくやり方は、大事な話をするのにピッタリだったのではないかなと感じました。

これらの場面から、目を見て話すことで気持ちがより伝わるようになるんだなと改めて感じました。やっぱり「顔見て話したい」のは、それだけ想いが伝わるからだよね。そうなるとやっぱり、一人ひとりの事情はあると思いますが、手話は第一言語として選択したくなるものなのかなぁと思います。

ただ!文字は大事じゃないと言えばそういうことでもなく、「文字を獲得した喜び」はこの間のフクチッチの点字回で触れられていて、なるほどなぁと思いました。どっちも大事。

本当に「分かり合えない」のか

ここまで、言語という視点でsilentを見てきました。

機械翻訳が発達する中で、言葉をただの道具として捉える人もいるのではないかと思います。言葉さえ合っていれば、言語知識だけあれば大丈夫。

でもそれって危険な考え方だと思います。コミュニケーションは言葉だけじゃないし、言語の背景には話者の文化があって、コミュニティがあるし。そういう大事なことに気付かせてくれたのがこのドラマだなと思います。

他者を理解すること、理解しようとすることが「異文化」交流において必要不可欠だと思います。

それでは、「理解すること」「分かり合うこと」「同じ世界にいること」は可能なのでしょうか。

「初めから出会わなければ良かったって、この人と出会わなければ、こんなに悲しい思いしなくて済んだのにって」
「ろう者同士の方が幸せって事ですかね」

「silent」予告編より

できない、と思っている1人が春尾先生。だから自分から壁を作り、コミュニティに入ろうとしない。傷付けないように、傷付かないように。

ここに対する答えは、きっとこれから描いてくれるんだろうなぁと思います。

紬と想が歩み寄ろうとしている過程は、春尾先生か過去と向き合う様子は、きっと分かり合うために必要なことを教えてくれると思います。

答えはひとつじゃないし、正しいも間違ってるも無いと思うけど、ここで出される答えの1つを見つめていきたいなと思います。

(追記)
ドラマで辿り着くのはあくまで1つなので、もうひとつを!ある夫婦の動画です。良かったら見てみてください。


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