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2月2日の朝。
目が覚めたら8時過ぎ。結構寝たな。いつもは6時半くらいに目覚めて二度寝して7時半とか。昨夜は急に冷え込んで冷たい風が吹くのでカーテンを閉め切った。そうすると朝日が入ってこない。朝日を感じないとたぶん人は目覚めにくいのだと思う。
起床するまでの時間、スマホをいじっているとふとSNSの書き込みが気になった。書店の方の書き込みでどうやら来客が少なくて経営に危機感があり、恥ずかしながら応援いただきたいという旨。
そうかあ。それは共感しかないよと、うちもずっと低空飛行の経営で胃がキリキリと痛む日々を過ごした。今も大して高みを飛んではいないが、何とか胃痛を感じずに過ごせているのはどちらかというと諦めることを自らに許しているだけかも知れない。
それはまあそれとして。SNSをたぐると共感しか覚えないその書店にネガティブに絡む人がいて、どんな書き込みにも批判する人は居るもんなあと思っていると、どうやらそのお店では本を買わない人に厳しく接するという批判がクチコミとして投稿されていて、確認してみてああ、辛いなあ。そういえばうちも大して変わらないよと思って反省した。
その店主の厳しい態度はここ最近の口コミで、5〜6年前くらいには良い評価しかないようだった。
やる気があって真面目で几帳面な人はうまくいかない日々が続くと抱え込む。ストレスが蓄積していつの間にかバランスを崩していつの間にか「鬼」になることもある。僕はそんなことを思うようになった。
僕とその方の違いは、そう思うようになったか、そう思うよりも真面目に几帳面に必死に取り組み続けてきたかの違いでしかない。
だが「鬼」はたどり着いてしまった成れの果てではない。単なるコンディション、体調でしかない。どこかでバイオリズムを上昇させれば脱することのできる状態だ。そう思うようにしている。
今日は2/2。明日は節分だ。節分には豆まき。鬼を外に追いやる儀式が日本中で行われてきた。鬼とはなんだろう?
家の中にいる悪しき存在が鬼ということだろうか。
いや、そうではなかろう。鬼とは自らのコンディションで、それは自分自身そのもののことだ。この時期、気温や気圧の急激な変化で体調は崩れやすい。それはメンタル面も同様である。心身はその割合も揺らぎつつ常にシンクロしつつ互いに揺らぎ続けている。その揺れが最大になるのが古来よりこの時期であり、だから人はこの時期に誰もが「鬼」となり。大なり小なり。
だから鬼であることは仕方がない。心身が揺らぎコントロールが難しくなり、コントロールが難しいことすら意識できなくなると人は「鬼」という状態に変異してしまう。
何をすれば正しいのかなんて分かりはしないことだが、まだ何とか正気を保てているうちに、自らが変異することを遠くから眺めることをしていれば、越えてはいけないようなラインが見えてくるかもしれない。
どうだか。僕もそんなことを思いながら、とっくにラインを越えている。そうも思える。私たちは明確な基準の中で生きてはいない。混沌で曖昧な基準すら定めていない空気の中をどうにかやりくりしているのが実情なのだろう。
節分の日に、鬼は内、福は内と唱えることを推奨するのをYouTubeで見た。それは良いことかもしれないと思った。
なぜなら「鬼」とはそもそも自分自身の一部であるのだから。そもそも内にある存在であるのだから。
内にあるものが暴れる時、それを外に追いやるのですか?それなら僕はその暴れる「内なるもの」をより一層抱きしめてやりたいと思う。
だから鬼は内。
すべては意識やイメージの世界で形のあるものではない。だけど私たちは生活のかなりの部分をその目に見えないもので成り立たせていることも事実だ。
その書店の店主が、その僕なんかよりもずっと几帳面で真面目な資質がいつか、そう遠くない未来に報われますようにと思う。
そしてこの長文を書くに至る気付きで、うちのお店も少しはマシにしないといけないようにも思う。
ありがとうございます。
明日は節分。そして翌日は立春。古来よりこのタイミングで新しい一年ははじまりました。
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