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SNS断ち

SNSの周りがザワザワしている。つい先日、作業中に聴いていたFM番組のテーマがそうだった。「SNS断ち」。

SNSがはじまったのはいつだったか。たぶん認識したのはmixiというもので、次にTwitter、その次はFacebook。それがだいたい2000年台の初めの頃だ。だいたい20年くらいSNSに触れてきたことになる。

仮に20年前の自分を想像してみて、その年齢で割と幅を利かせていたメディアとはなんだったかを考えるとやはりテレビだろうか。そしてさらに20年差し引く。合わせて40年を引いてみる。自分自身が10歳とかなので、もはやメディアとかそんな概念はまだ持ち合わせていない。ただ、20年刻みで自分が触れてきたメディアをぼんやりと考えてみると子どもだった自分が20年テレビに触れて暮らしてきて、そこでSNSというメディア(と呼んでしまうが)に触れながら暮らしてきた。

テレビとSNSの違いは、一方的に受け取るだけということから、双方向性の情報のやり取りが生まれたことだろうか。

この20年でSNSはさらに発展を遂げて動画や音声による個人の情報発信。個人がメディア化するという時代になる側面を持った。それは玉石混交で多様性そのもの、つまり善意と悪意すら自己責任の名の下に発信される世の中になっている。

受け取り、発信する。個人が受け取る情報は多種多様であり、そして個人が受け取り損なう情報はその何倍も行き交っている。

考え方によっては、現代人は取捨選択された結果の偏った情報の渦を内面に抱え込んでいる存在であるとも言える。

その昔は、いや今でもそういう側面はあるが、かつて情報の取捨選択の大きな役割は書籍が担っていた。その人の本棚を見ればその人がどんな人であるのか推測することができた。

書籍がデジタル情報に取って代わり、莫大な情報によって個人の価値観、視座は形成される。

本に書いてある情報がすべて正しいとは言えないが、ネットで収集された情報の正確性よりは遥かに高そうだ。

いま、わたしたちは、雑多で曖昧な、悪意に満ちていたり、意図的に仕組んだ誤情報なども含んだ膨大な情報を眺めて暮らしている。

それはどんな景色だろうか?

良き側面もあり、また悪い側面もあるだろう。

少なくとも最近ではその、膨大なデジタルの流れから自分自身を切り離すこと、「SNS断ち」というスタンスも市民権を得てきたということだろう。

テレビは捨てた。そしていまSNSのアカウントも削除したという人も出てきている。それでも実生活に致命的なハンデが生じないことは誰もがうっすら理解もしている。

SNSの半分は優しさでできている。

では残りの半分は?

残り半分は依存症でできている。

そういうこともできそうだし、残りの半分を色々と当てはめてみれば様々なことが言えそうで、すこし今のこの生活習慣でSNSに対する視点として、少しの発見があるかもしれない。

私は以前にあるSNSのアカウントを乗っ取られてしまい、メッセージ機能を勝手に操作されスパムメッセージを送信してしまった。

早めに気づいたので、対策をして迷惑なメッセージを送ってしまった友人たちにお詫びの連絡を取った。心配してくれる友人、このことで久しぶりにやり取りすることもあったりもした。

そして中にはお詫びのメッセージを送ろうとしたらメッセージがブロックされて届かないこともあった。

「プロックされています」と警告メッセージが表示され、それは申し訳ないなと思いながら、こういう時にただ相手をブロックするという関係性でしかなかったことに愕然もした。

私にとってのSNSはこの時に終わった。大いに考え直すきっかけとなった。

20年も愛用してきたSNSというメディアは、その有用性を教えてくれた人がいた。だがその人も昨年に急逝された。だからこそ、その人に心から感謝しているからこそ、私はいま密やかにSNSに対して総括することにしている。

いろいろな節目が間もなく訪れることだろう。

このささやかな総括もその節目、変化の一部となるだろう。

こんなことを書きながら、明確に指針ができているわけでもなく、ただ指針を明確にする必要性だけを強く感じているのでそのことだけを理由を含めて少し書き残しておきます。

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