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恥ずかしくってぎゃーーー!って叫びたいときは

新学期。

私は、毎度のごとく、自分が恥ずかしくて、頭を抱えている。

娘が小学校三年生になり、新学年初の個人面談に行ってきた。

個人面談とか、授業参観とか、懇談会とかすっごく緊張する。

終わったら、もう、すべての枠が取っ払われたような気分で、祝杯をあげたくなるぐらい。

今年は、去年の先生と同じだったから、あんまり緊張せずに学校に足を運ぶことができた。

でも、先生を目の前にすると、謎のテンションが発動する。

まぁだいたい、好きな先生の前で、発動するへんなテンション。

好きな子の前で様子がおかしくなる子どもなのか、私は。

そして、学校にいる間は、まだテンションが高いから、それほど困ったことにならないけれど、問題は、家に帰ってきてからだ。


へんな言動、おかしなテンションに、恥ずかしくなってくる。

穴があったら入りたくなって来る。

ああ、私、しゃべりすぎた。
しゃべらずに、もうちょっと先生の話を聞けばよかった。
娘の学校の様子を聞く側に回ればよかった。
とか。

そして今回一番頭を抱えたのは、
「叱るのって、難しいなって思って」という話から、

「私が、叱るときは、なんか。。。大人をなめているというか、馬鹿にしたような発言をしたとき・・・ぐらいかな」

って発言。

何?何?私何様?

もう、なんだか思い出しては、恥ずかしくなって、
台所で、お湯を沸かしながら「あああああ!」思い出し叫びをしちゃったぐらい。


なに先生前にして教育論語ってんだよう。
15分の中でそれ、語りだす?

叱るときって、それぐらいって、なんか、偉そう?
それ以外にもめっちゃあるじゃーん。怒っているの。

それは怒っているであって、叱っているじゃないからうんぬんかんぬん(心の声)

はっ!そういうところよ、そんなのあの短時間で伝わるわけないじゃん。
ってか伝わっても、小難しくてなんだか恥ずかしいよう・・


なんてのがどわーーーっとでてきて、台所でさけんでいた。

そういうときは、ホ・オポノポノ。

唱えながら、カップにお湯を注ぐ。

ありがとう
ごめんなさい
ゆるしてください
愛しています。

私がクリーニング(ホオポノポノのこと)するときは、大きな感情の波に翻弄されているとき。

ただただ、目的も期待もせず唱える。

4つの言葉を唱えることが、頭の中で暴言を吐くことの、代わりになる。

すると、少し心が落ち着いてきた。

そして気づきがくる。

「ああ、私は、こんな視点で、人や自分を裁いていたんだなぁ。」と。

教育論を語るのは偉そうで恥ずかしくて野蛮なこと

という観点を持ち、そうする人や自分を裁き、非難していた。ようだ。


いいじゃないか、教育論を語ったって。

いいじゃないか、叱ることの基準を設定していたって

いいじゃないか、先生に気遣って話題を提供したって

いいじゃないか、テンションがおかしくなるように感情的であって


あまりかっこいいと思えないから、人にはしないように、と自分を制していた。そして、それらをする人々をみて、かっこ悪いと蔑み、馬鹿にしていたのだ。

そして、その「攻撃」の「矢」は他者にだけ向けられているのではなく、
もちろん、自分にも向けられていた。

いつも、いつも、常に、常に。

当たり前にやっていること過ぎて、自分では気が付かない。そのおかしさに。


そして、こういう、テンションがあがって、なんだか自分のコトンロールがうまくいかないところで、本心がでる。

教育論を語りたい。
自分が大事に思っていることをシェアしたい。
叱る について語り合いたい。伝えたい。

もう・・・真面目でお堅い私がたくさんでてくる。


私は、なんでそんなにも、まじめで、お堅い私を制して封印しようとするのだろうか。

それは、かつて「まじめなのは格好悪い」という風潮をどこかで自分のものとして取り入れたからだ。

「うつになるのは、まじめな人」とか言われていたときもあったね。

それに当てはまらないように、まじめさを隠したのかもしれない。


私は、まじめで、お堅い。

でも、殆どテキトーで、ゆるい。

これは矛盾する性格だけれど、どちらも私にある。

私のことを、適当な人 と見ていた人は、私のまじめさにびっくりするし、まじめな人 と見ていた人は、私のゆるさに驚く。


私が大事にしていることに関しては、まじめさが発動するようだ。

つまり、
教育論、「叱る」論に関しては、私は、まじめになるらしい。

だって大事にしているから。


大事にしていることで、熱く語ったんだよね。
かっこ悪かったかもね。
スマートじゃなかったかもね。
そんなあなたを愛しく思いますよ。

そんなセリフとともに、自分のかっこ悪さを容認する気持ちがじわじわと湧いてきた。

そして、今この記事を書いている。

そして、私の頭の中は静かになって、自分を愛おしく思う気持ちのほうが、自分を恥ずかしく思う気持ちよりも大きくなっていた。


まとめよう。

ぎゃーーーーっと恥ずかしくって叫びたいときは、
自分の放った矢が自分に刺さったとき。

どんな矢を放ったのかな。

その「矢」(思い込み)は本当かな?

そんな風に観察してみよう。

今日も、自分の中の誰かが、あなたからの許しを待っている。







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