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人の行動と責任まで背負いこまないこと

一昨日、antshouseというクラブイベントに行った。

新宿2丁目のクラブには行ったことがあるのだけど、本当に音楽メインのクラブ自体が初めてで、クラブ一人で行くのこわーいという気持ちで友達を誘った。
友達が来てくれることになって安堵したのも束の間、急に大変な焦りが出てきた。何故なら私はこのイベントに関して小袋成彬が主催すること以外何も知らなかったからだ。一人で行くなら全然いいのだけど、あまり情報がない場所に人を連れていってつまらない思いさせたらどうしよう、、つまらないどころか不快な思いさせたらどうしよう、、、という強迫観念のようなものが昔からあるのだ。

大学生の時、私が選んだ知らない店に友達を連れて行く機会があり、それに関して怖いと思っていることを正直に打ち明けた。そしたら「君は本当に可哀そうな人だね」と言われたのを覚えている。でもその時は意味が分からなかった、何故可哀そうな人間と思われているのか。

私は小さな嘘をつくのが習慣となっている。人からしたら「なぜそんな嘘をつくか分からない」と思われるようなどうでも良さそうな嘘もつく。嘘をつくことが必ずしも悪いことではないし、嘘で自分の身を守る事はむしろ重要な時もある。けれど嘘が自分を苦しめることもたくさんある。苦しめるというか、窮屈さが微増していく感じというか。

結果的にクラブイベントはめちゃくちゃ楽しかった。テクノとかハウスばっかりじゃなくて、ジャズソウルラテン系の曲が多くてめちゃくちゃ好みだったし、DJのすごさを間近で見られてとても良かった。彼女も楽しんでくれて、最後には「誘ってくれてありがとう」と言ってくれた。

次の日、突如恋人に時間ができたのだけど、私はもともと予約していた本屋のイベントに行こうとしていた。
多分そのことを言ったら一緒に行きたいというだろうと予想した。
ただイベント内容がアナキズムでちょっとセンシティブなのかなと思っていたのと、著者のことをちゃんと知らなかったので私はまたいつもの強迫観念に苛まれて、恋人に適当に嘘をつこうとしていた。
本当に割と病気だと思う。今までこういうことを罪悪感なくやってきたのだ。

でもその時、私はいつまで嘘をついて自分を苦しめるのだろう、と思った。なんだか言いづらい事があるとき、嘘をついたり、たまに勇気を出して本当のことを言ったりするのを繰り返してるんだけど、本当のことを言える間柄の人には本当のことを言う割合を増やしていかないと今後も疲れてしまう。

そう思い直し、このイベント行くんだと打ち明けた。(イベントの内容くらいサラッと言えよと思うと思うんですけど、なんか躊躇しちゃうんだよな。。)
案の定行きたいというので、一緒に行った。

結果、本屋イベントもめちゃくちゃ良かった。新しく色々なことを学んだし、小川先生と近内先生がアナキズムは小さな行動と仰っていて、自分がやってきた小さな行動も意味があったのかもしれないと嬉しくなって、ああこうやって遠い立場の人だとしても思想的に自分の味方である人に出会うことは本当にうれしいなと思った。私も別のところで小さな行動をやっていくね、頑張るね、と思った。

結果的に良かったんだけど、たとえどちらのイベントも良くなくても、本来私は責任を感じる必要はないのだ。何故なら友達や恋人が自身で「選んで」イベントに参加することを決めたからだ。彼らの決断は彼らの責任だ。

そもそも彼らはこのイベントが微妙だったとして、私を責めるような人間ではない。そのことを強く信じることが大事だし、信じていきたい。

人によってはまじで大したことない話なんだけど、このように人を自分の興味関心の場所に連れていくことができるようになったのは、本当に自分にとって大きな出来事だったのである。私はただそれに感動しまくっている。

今後もちょっと嘘ついちゃうことがあるだろうし、この病気は一朝一夕で治るものではないと思っている。けれど、自分を見せられる人を増やしていくことが自分を楽にすることは分かっているし、私は自分らしく毅然と振舞って戦っている人が好きなのでそういう人になりたい。


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