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おばあちゃんと不揃いのニラ玉


祖母はものすごく愚痴が多い人でした。
一度も外に働きに出たことがない箱入り娘で、かたや祖父は自由人
伝統芸能を嗜む祖父は 孫のわたしから見ても格好良く、明らかにモテていました。
それはもう毎日のように愚痴を聞かされました。
愚痴を聞く時間
幼いながらに嫌で嫌で、できるだけ祖父の近くにいたり押し入れに隠れていました。
わたしが一人暮らしを始めるときも
就職で東京へ出るときも
とにかく反対して否定して
「子供も孫もみんな外に出ていって全然会いに来てくれない」
会うたび愚痴をこぼしていました。
「もうおばあちゃんダメ。こんなところにいたくない。もう長くないよ」
最初に聞いてから20年以上
施設の誰よりも長生きして来年100歳になります。


母は祖母と対照的にバリバリのキャリアウーマンだったので
わたしはいつも祖父母の家にあずけられていました。
祖父母だけでなく親戚も近くに住んでいて、いつも可愛がってもらっていたので寂しいと感じることはありませんでした。
とはいえ、まだまだ母に甘えたい盛り
何かして母を喜ばせたくて、庭でお花を摘んで花束を作ったり、絵を描いたり、ご飯を作って迎えを待っていました。

わたしが最初に作った料理はニラ玉でした。
祖母がいつも作ってくれたニラ玉
卵とニラ、醤油と塩コショウだけ
いつも形がいびつで、大きめの日もあれば小さめの日もあったり
子供にとっては美味しいような美味しくないような?
でもどうしても作りたくて教えてもらいました。
祖母が唯一愚痴を言わない時間が、一緒に料理をする時間でした。
だからとても好きな時間でした。
祖母のことを好きでいられる時間でした。


そんな祖母が昨年、わたしのことが分からなくなりました。
突然のことでした。
「誰か分からない」
はっきりそう言われたとき
ショックで何も考えられず呆然としました。
でも「わたし」のことを嬉しそうに話すのです。
不思議なことに「大人のわたし」は分からないのに「子どものわたし」は覚えています。
祖母の中のわたしは、抱っこできるくらい小さな3歳くらいの女の子。
毎日のように嬉しそうに「わたし」のことを話すと聞き、涙が出ました。



東京に戻ってから 祖母と作っていた料理を作りました。
「わたしが風邪をひいたら、おかあさんは仕事を休んで1日いっしょにいられるかな?」
と、よく "風邪チャレンジ" していたことを思い出します。
寒い冬に薄着で外に出たり、冷たい床で寝てみたり。
屋根によじ登ったり幼稚園を脱走したこともありました。
でも残念ながら、毎日のニラ玉はわたしを健康にし、強くし、卒園式では皆勤賞をもらいました。
あれから何十年も経ち、周囲の環境が何度も変わったけれど
食生活が乱れていると感じたら必ずニラ玉を作りました。
どんなときも どこにいても わたしに元気をくれたスーパーフードです。



明日、祖母に会いに行きます。
手作りのニラ玉を持って行ったら「誰?こんなの食べない」って言うかも。
いいよいいよ
まだまだ愚痴を聞かせてもらおうじゃない。


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