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【第5回】空間/場所読書会 報告記事

課題書の紹介

10月23日(土)の読書会では、「空間/場所」のテーマをテクノロジーの問題系へと接続させた。言うまでもなく、現代において空間を考える際、メディアや技術の問題を避けて通ることはできない。近年では、ネット上の仮想空間「メタバース」が次世代のプラットフォームとして注目を浴びはじめ、その存在感は増してきている。極めて現代的な空間とテクノロジーの繋がりを捉えるべく、私たちはインターネット黎明期の息吹が残るテクストを二冊取り上げた。

 一冊目は、マイケル・ベネディクト編『サイバースペース』(1991)。編著者のベネディクトは建築家であり都市論者でもある。本書はインターネットやコンピューター黎明期に、サイバースペースという新しい空間の基礎づけを試みた意欲的な論文集だ。その内容は、サイバースペースの哲学的基礎、その身体との関連性、スペース内でのコミュニケーション理論、職場における影響、など多岐に渡る。こんにち私たちの自明とするテクノロジーが、まだ可能性の一端でしかなかった時代に書かれた本書『サイバースペース』は、その原理的な特性を考えるにあたって多くの示唆を与えてくれた。

 二冊目の『テレビのエコーグラフィー デリダ〈哲学〉を語る』(2005)は、哲学者ジャック・デリダと、デリダのもとで学んだベルナール・スティグレールによる共著だ。三部構成となっている本書には、デリダのテクスト「人為時事性」、スティグレールの「離散的イマージュ」、そして両者の対談が含まれている。情報メディアとともに安易に語られがちな諸々の議論の枠組みを批判し、未来へと言葉を紡ぐこと。デリダいわく、現代の知識人の責務とは「リズムを変えること」である。二人の思考は新しいリズムを切り開き、私たちを誘い出す。

『サイバースペース』 (発表担当者:草乃羊)

〈世界3〉

 ベネディクトは、サイバースペースを基礎づけるにあたって、補助的にカール・ポパーの議論を紹介する。哲学者ポパーは『客観的知識——進化論的アプローチ』(1972)で、「3つの世界」論を展開した。それは、現実を3つの世界の相互作用として捉える考え方である。〈世界1〉は、物理的対象によって構築されている。〈世界2〉は、心的な状態、すなわち意志・感情・思考・夢・記憶など主観的な諸状態が織りなす世界だ。そして、〈世界3〉は人が生み出す抽象的な世界であり自律性を持つ。

 〈世界3〉には、言語、数学、法律、宗教、哲学、芸術、諸科学などの構築物が所属する。それらは〈世界1〉との相互作用によって、私たちの前に具現化され現れる。ポパーの3世界論の特徴は、この純粋に抽象的で情報的な〈世界3〉を取り出したことにある。彼が批判するのは、〈世界1〉と〈世界3〉、もしくは〈世界2〉と〈世界3〉が同一視されるような二元論の世界観だ。ポパーの3つ世界は等しく実在し、相互に接続し合っている。ベネディクトはポパーを援用しながら、〈世界3〉の進化の最終段階が「サイバースペース」であると主張した。

サイバースペースの空間的特性

 サイバースペースは物理空間と何が異なるのか。この問いに答えるためには、まず空間というものについて考え直さねばならない。空間の基礎づけをめぐる哲学的議論についてはここでは立ち入らないが、一例としてベネディクトは「運動の自由」から空間を定義する方法を挙げている。「空間は”運動の自由”という状態にあるわれわれの前にその姿を現す」(138頁)。空間は、論理的な境界と体験された特質を備えているものとして、現象学的な定義を持つ。

 サイバースペースにおいて明らかなのは、それが通常の空間と時間の基本原理を侵犯するということである。ベネディクトは、それが古代の魔術や神話の世界の継承者であるとも述べる(身体消失、地下世界、幽霊、別世界に至る鏡や扉、無重力)。しかし、それらの物語があくまで侵犯の叙述に留まるのに対し、サイバースペースは実際に”奇跡”として時空間の論理を侵犯する。パネルやディスプレイにおけるボタン、スライダ、カーソルによって引き起こされる諸現象が「現象のレベルで物理的に理解される場合には、物理学の法則の大幅な書き換えが要求されることになる」(140頁)。

サイバースペースの基本原理

 ベネディクトが主張するように、サイバースペースの設計とは、パラレル・ユニバースの設計である。それが物理空間の法則を侵犯したとしても、サイバースペースは単なるカオスではなく、「場所(place)」と呼ばれる権利を持っている。ベネディクトが提唱するサイバースペースは、「次元性」(変数の集まりによって次元が決定される)や「連続性」の観点から、以下の7つの原理を導出する。発表内では、それぞれの原理についての検討を行った。

・排他の原理 (Principle of Exclusion)
・最大排他の原理 (Principle of Maximal Exclusion)
・不偏の原理 (Principle of Indifference)
・スケールの原理 (Principle of Scale)
・交通の原理 (Principle of Transit)
・個人の可視性の原理 (Principle of Personal Visibility)
・共通性の原理 (Principle of Commonality)

 これらの原理に従うサイバースペースは、オルタナティブな世界像を作り上げる。ではサイバースペースは現実世界のミメーシス/シミュラークルであるべきなのだろうか。これは、発表者の草乃によって提起された問いである。ベネディクトは、サイバースペースが究極的には人間のためにあるべきものだとしている。「サイバースペースは、そこで働き、楽しむことができ、そして自然全体に対する絶対的忠誠よりも、人間に力/資格を与えることが常に優先される、そうした場でなければならない」(138頁)。しかし、かくのごときサイバースペースは、現実に存在する諸々の社会問題をそのまま拡張させる(例えば格差の拡大)ものでしか無いのではないか。

『テレビのエコーグラフィー』 (発表担当者:左藤青)

アクチュアリティの分析

 『テレビのエコーグラフィー』が取り扱うテーマは多岐に渡るため、その中からいくつかのポイントをピックアップして紹介する。まず、デリダのテクスト「人為時事性」で扱われるのは、「アクチュアリティ」に対する分析である。フランス語ではニュース番組という意味も持つこの語は(actualité)、私たちの情報社会の基盤を示している。各種メディアが便利であるのは、それがリアル・タイムで「アクチュアル」な情報を提供してくれるからであり、「アクチュアル」なコミュニケーションを可能にするからである。しかしデリダは、この「アクチュアリティ」が人為的に加工されたものでしかないことを示し、無批判にそれを受け入れることに対して警鐘を鳴らす。

 なぜか。まず、アクチュアルな情報は「自民族中心的」である。つまりそれらの情報が、国民の規範や行動様式に合わせて任意に選択されたものである点には、留意しなければいけない。また、デリダは次のようにも述べる。「⽣中継やリアル・タイムは、私たちに直観も、透明さも届けないし、解釈や技術の介⼊のないいかなる知覚をも届けはしない。このような証明はすでに、それ⾃体によって、哲学を呼び求めている」(13頁)。だからこそ、純粋な「アクチュアリティ」はデリダにとって脱構築の対象となるのだ。情報社会の根幹にある現前性を批判し、その隙間にデリダは「来るべきものの到来」の証言を聞きとろうとする。

アナログ/デジタル

 一方スティグレールは、イメージをテーマに論考「離散的イマージュ」を展開した。そこで取り上げられるのはアナログ/デジタルの区分である。「アナログ」とは、現実とその対応物が類比的(アナロジー的)であることを示している。そして「デジタル」は、アナログな対象を数値(digit)に変換したものだ。それらの数値はあくまでも近似値であるため、デジタルの世界では「離散的」(連続的ではない)なイマージュが形作られる。

 スティグレールはバルトの写真論『明るい部屋』を参照する。バルトは、写真のノエマ(意識のうちにおける志向対象)を「それは-かつて-あった」(Ça-a-été)だとした。亡くなった母の写真は、母がかつて実在したということを強く証言する。そこにあるのは、光を媒介とした確実な連続性である。アナログ写真において、撮影対象に触れた光と私の視線が捉える光の間には、つながりが保証されている。しかし、デジタル写真においてはそうではない。「デジタル写真では、逆に操作は本質的、すなわち規則的である」(240頁)。離散的なデジタルの特性が、そこに操作可能性を持ち込み、「それは-かつて-あった」を脅かす。

 つまり、アナログ写真がかつて確実に起こった「現在」を告げている一方で、デジタル写真は「決して現在であったことのない過去の夜」(247頁)を示す。したがってデジタル写真においては、数直線的な過去-現在-未来の時間軸が惑わされるようになる。もちろん、その連続性が成立しなくなるわけではない。なぜなら人がデジタル写真を見るとき、その写真の対象との断絶は必ずしも意識されず、むしろその連続性を信じるからだ。しかし、現在を中心として現象学的に構成された連続性は、デジタル化・離散化によって常に変容を迫られる。この点においてスティグレールは、デリダの「アクチュアリティ」分析と交差することになる。

「文化例外」

 本書には、デリダとスティグレールの対談も収録されている。そこで議論される点の一つとして、「文化例外」を挙げることができる。文化例外とは、1990年代に貿易の自由化をめぐる協議の中で、フランスによって主張されたステートメントである。当時ヨーロッパの映画市場で大きな力を有していたアメリカは更なる、ECによる映画産業への保護主義的な政策の撤廃を求めていた。しかし、ヨーロッパ側は映画をはじめとする映像作品が、一国の文化的アイデンティティを形成する要件であり、それらを他の商品と同列に並べて自由化を推し進めるわけにはいかないと主張していた。

 では、この文化例外を私たちはどのように評価することができるのだろうか。スティグレールは文化例外を、市場の急速的な支配を遅延させ、文化を保護するための時間稼ぎとして、それを評価している。留保付きで文化例外を認めるスティグレールに対し、デリダは多くの留意点を挙げている。まずデリダは、保護するべきアイデンティティを有する「国家」という枠組みに警戒心を寄せる。なぜならそれは、国民国家的なイデオロギーに文化が飼い慣らされることを意味するからだ。デリダは、市場の原理を頭ごなしに否定しない。彼は市場の原理と公共性を分けて考えており、市場の規制によって公共性の規制が起こってはならないと主張する。

ディスカッション

 発表後のディスカッションでは多くの論点が挙げられた。今回扱った二冊に共通するのは、冷戦以降の公共性への問いである。同じようなイデオロギーを持つ国々で、同じような消費が行われる状況の中、私たちはどこに思考の条件を見出せばよいのだろうか。テクノロジーによる世界の均一化が急速に進む時代に、その影響から逃れることは不可能である。だからこそ、技術に内在し、その中で私たちの場所について思考することが求められる。

 例えば私たちは、現状の技術的状況が、コミュニティの成立には不十分であることを知っている。人はZoom上のミーティングだけでは満足にできず、対面での繋がりを要求する。それゆえ、近頃ではオンライン上で対面に近いコミュニケーションを実現するため、空間性を担保する試みがなされている。目的論的に収束しがちなサイバースペースにおいて、空間の戯れを確保することが必要だ。なぜなら、人は偶然的な出会いによってのみ、思考を開始させるのだから(ドゥルーズ)。テクノロジーの問題系を通して、本読書会の二冊の課題書は、来るべき空間を思考する端緒となった。


文/安永光希

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