星新一に敬意を込めて  マザー(下)


瞬間、視界が急速に流れ再び真っ白になると、いつの間にか視界は研究室戻った。何だったのだあの感覚は。しかし、研究室は特に変わった様子はなく、中央にはベイビーツーが上下に揺れており、次第に停止した。乗組員のヤナギサワは地面に仰向けになっており感無量といった表示をしていた。他の学者達も辺りを見渡しており、皆、何か言いたそうな表情をしていた。
「、、ヤナギサワ君、無事か?」
カデノコウジ博士は仰向けになったヤナギサワに駆け寄ると、ヤナギサワはカデノコウジ博士の耳元で何やら呟いていた。
「な、なんだと、それは本当なのか!だとしたら今回の実験は、、」
ヤナギサワは、カデノコウジ博士の白衣を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。
「ヤナギサワ君。今の話を皆にもしてくれ」
ヤナギサワは息を整え、周りにいる学者を一人一人見渡す。
「な、何というか、その、私が乗ったベイビーツーは正常に作動しました。バグもなく非常にスムーズに作動しました。そしてゆっくりと浮上し、このフロアを二周ほど旋回しました。実験は成功です。ただ、問題はここからです。ベイビーツーが三週目に入ると同時に私はブレーキコマンドを作動しましたが上手くいかず、一気に加速しました。それは物凄い程の。私の視界は瞬く間に真っ白になりました。凄まじ重力の影響で暫く動けずにいました。ふと、目の前を見ると、その、真っ白い視界は赤く染められいました。私はゾッとしました。恐らく制御が効かなくなったベイビーツーは、暴走しこのフロアを右往左往して、ここに居る方々を撥ね飛ばしていたのです。皆さん、痛みも何も気付かぬ間にバラバラになっていたのでは無いかと思います。しかしベイビーツーはさらに加速を続け、私の視界は真っ暗になりました。その瞬間私は意識を失い、気づくと此処に倒れていたのです」
ヤナギサワはそう言うと膝を崩して、座り込んだ。カデノコウジ博士は数回咳払いすると、不安な顔を並べた学者達に言い放った。
「単刀直入言わせてもらう。たった今、何が起こったのか。皆のもの時計を確認したまえ」
エス氏は自分の腕の時計を確認した。すると、チッチッチッと針が進み、針が十二の上に重なった。
「十四時だ!」
若い学者がそう叫んだ。そして、たった今、何が起こったのか、このフロアにいる者は理解した。
「皆の者。実験は成功だ!」
フロアに歓喜の叫び声が響き渡った。拳を掲げ抱き合い、泣いてる。
ただエス氏だけは、漠然とした不安を胸に、顔を引き攣らせていた。
実験の成功を祝って、皆で食事会を行う事になったが、エス氏は参加しなかった。代わりにクロサワと酒を飲む事にした。
「そうか、そんな事があったのか、」
賑やかな駅前の居酒屋とは反対にある、質素なバーでエス氏とクロサワはグラスを傾けていた。
「本当、生きた心地がしないよ」
「でも実験は成功したのだろう?」
「ああ。成功してしまったよ」
エス氏の表情はどこか暗く、長年の実験の成果が表れた日とは程遠かった。
「どうしたんだ?暗い顔して」
エス氏はウイスキーを飲み干すと、ボーイにお代わりを注文した。
「いや、今日は君の誘いだ。私の事はいい。それで、話しって何だい?」
クロサワは煙草に火をつけると暫く黙った。
「実はな、マザーの事なんだ」
「ふむ。と云うと?」
「うん。昨日の夜の事だ。私は六時前には自宅に着いた。仕事も割と早く終わってな。ほら例のカナリアマーズを使ったボディ耐久テスト、あれが思いのほか上手くいってな、これがまた、」
「おい、そんな事はいいから。話に戻ってくれ」
「あ、すまん。つい癖が。そうだな、どこまで話したか、」
「まだ早く帰宅した事しか喋ってないぞ」
「そうかそうか。それでな、妻の食事を摂って風呂に入ったんだ。そこで私は思い老けていた。私には決めなければならない事があったんだ」
「ほう。決めなければならない事。それは一体何だい?」
「妻と別れるか、そうでないか」
「これまた厄介そうな悩みだな。でも、どうしてそんな事を。君には息子もいるだろう。名前何て言ったか、、ユウタ、ユウス、」
「ユージだ。そうだ。私には妻も息子もいる。しかしだな、言いづらい事なんだが、私には愛人がいるんだ」
「何だって!君に愛人が?何という事だ。これは驚いた」
「君だから話したんだ、誰にも言わないでくれよ」
「勿論だ。それでどこの誰と不倫してるんだい?」
エス氏の表情は少し高揚し、ほのかに頬を赤ている。
「、、、受付のナギサさんだ」
「な、何!受付のナギサさんだと!これまた驚いた。君の息子と大して歳も変わらないじゃあないか」
「ああ。恥ずかしい事だ。私は出来るならあとぐされなく終わりにしたかった。しかし、あのナギサが、あんな事を言うとは、」
「あんな事?何を言われたんだ?」
エス氏は少し前のめりなり顔を近づけた。先程の不安げな表情は、既に何処かへ消えていた。
「一年程前に言ったんだ。終わりしようと。私がそう言ったんだ。どういう恋だろうと不倫は不倫。いつかはバレると危惧していたからな。するとあいつは、絶対に別れないと、そう言うんだ。別れるなら全部バラすと。妻にも会社にも全てをバラすと。さらに年内に妻と別れなければ同じく全てバラすと。そう言うんだ。私は本当に困っていた。それから毎晩家に帰ると、息子の成長が分かるのが嬉しく感じた。妻の存在も尊く感じたんだ。弱味を握られながら一年間、私は妻に言えずにいた」
「そうだったのか。それは何というか、災難だな」
「私は凄く悩んだ。夜もろくに寝れずに。ナギサとの約束の期間まであと僅かしか無かったからな。どうしようも無い私は、マザーに、マザーに聞いてみたんだ」
クロサワの顔色が瞬く間に青くなり、握っていたグラスをガタガタと揺らし始めた。
「い、一体どうしたんだ、おい、大丈夫か」
「ああ」
エス氏はボーイに水を注文すると、クロサワは一気に飲み干した。クロサワは徐々に落ち着きを取り戻すと、ウイスキーソーダをお代わりした。
「クロサワ、マザーに何を聞いたんだ?」
「単刀直入にそのままさ。どうすればこの状況を切り抜けるか。ってね。私のマザーは埋め込み式だから、説明なんてしなくてもマザーは私の精神状態を把握しているんだ」
「そしたら何と答えたんだ?」
「、、、」
バーの中央にある柱時刻は十一時を迎えた。ボーイは相変わらずグラスを磨いている。
「な、なんていう事だ。それはつまり、」
「ああ。妻を殺害すると言う事だ。現状、最善の結果を出したんだ。私のマザーは。そして何よりも恐ろしいのは今言った内容の部分。髪の毛程の隙間もない計画。それを導き出したんだ。私のマザーは」
殺害と言う言葉にエス氏は身震いした。つい数時間前に行われた実験を思い出した。
「そうか、だからベイビーツーに搭載されたマザーは、あの様な結果に導いたのか。長年、実験の成功を生み出すためにプログラムされていたから、それが何よりも優先になってしまっていたのか。我々の命よりも」
「プログラム、、まだそう呼べるか」
クロサワはグラスを飲み干すと、ため息と共に言葉を漏らした。
「何が言いたいんだ」
「もうプログラムの範疇では無い。自己的に想像する媒体さ。それも我々よりも遥かに優れた想像の出来るバケモノだ」

夜も更け、エス氏はクロサワと駅で別れた。
エス氏は帰宅途中、カデノコウジ博士の言葉を思い出していた。
「想像力とは何か。想像して欲しい」
エス氏の言いようの無い不安はすっかり恐怖に変化していた。どうにも出来ない焦りと迫り来る恐怖に侵されていた。いや、既に恐怖の世界なのだろうか。
エス氏は自宅に帰り、寝る前に珍しくウイスキィを傾けた。どうしたものか。何故、今まで気づかなかったのだろうか。
「あらあなた、珍しいわね。おめでたい事でもあったの?実験は成功したの?」
息子を寝かしつけた妻が、物珍しそうにエス氏の肩に手を添えた。
「ああ。何とかな」
「あなた、顔が疲れてるわ」
「色々あってな」
「そう、、」
妻は棚からワインボトルを取り出すと、グラスに注いだ。エス氏は妻とグラスをチンっと鳴らした。
「乾杯」
そしてエス氏は、昼間に起きた実験の一部を話した。
「今でも生きた心地がしないよ。全く」
「それは大変だったわね。でも、素晴らしいわ」
「素晴らしい?一体何が素晴らしいんだね?」
「マザーよ。遂に時を越える術を導きだしたって事じゃない。これから先、世の中はもっと便利になるわ。あなた、流石ね。マザーの研究者だなんて。誇りだわ」
「やめてくれ、誇りだなんて。私はこの仕事に嫌悪感さえ抱いているんだ」
「あら、どうして?」
すると、部屋の奥から泣きじゃくる坊やの奇声が響いた。
「ママぁ、ママぁ」
「どうしたの?急に泣いたりして」
「怖い夢でも見たんじゃないか?」
坊やはただ泣くばかりで、その理由は分からなかった。
「そうだわ。本を読んであげましょう。そうね、何の本がいいかしら。マザー、どの本にすべきかしら」
「思考中、、、ソウですネ。ハックルベリー・フィンの冒険ナドいいカガでしょうカ?」
「分かったわ。早速読み聞かせてあげて」
「ショうチシマした」
妻は坊やにワイヤレスイヤホンを装置させると、マザーは甲高い電子音の声でハックルベリー・フィンを始めた。
「ちょっと待て、君が選べばいいじゃあないか。第一、何故泣いているのかも分からないのにだ、しっかりと理由を追求すべきだろう」
「大丈夫よ。きっと悪い夢を見たんだわ。あなたがそう言ったのよ。マザーがハックルベリーを読めば良いって言ってるんだから良いじゃない」
「そういう問題ではないだろう。マザーにハックルベリーを勧められたのならば、君が読んであげればいいだろう?」
「何よあなた。家の事に関心なんて無かったくせに。この子の性格は私の方が熟知してるのよ。この子は私の声よりもマザーの声の方が落ち着くの」
「生まれた時からマザーに慣れてしまっているからだ!君がそうさせたんだ!」
「よく言うわね!この子は昔から私よりもマザーの言う事を聞く子なの!だからマザーを利用した方が効率的でしょう!」
「誰の子でも無い、この子のマザーは君だろ!」
激しい口論を重ね、数日が経ち、妻と坊やは家を離れた。そして、エス氏もまた堕落した生活を送っていた。
平日の昼間。エス氏は、ウイスキを片手にソファで横になりながらテレビを見ていた。無気力で気だるい昼間だった。窓の外には、雲一つなく晴れた青空が広がっている。
「速報です。マザー、ベイビーツーなどの開発者であるカデノコウジ博士が先日、都内の病院で亡くなりました。享年八十八歳でした。彼は数々の、、」
エス氏は何気なくチャンネルを変えた。カデノコウジ博士は八十八歳だったのかと。そう思った。
「先日行われた、初のベイビーツー試乗実験では、見事タイムスリップに成功致しました。時間にして一六七時間四十一分七秒。凡そ一週間前に辿り着いた事となり、この時空移動時間は最高記録となっております。尚、民間人の乗車予定につきましては、、」
プツン。テレビを消しウイスキを流し込む。
カデノコウジ博士が死んだ。死んだのか。
マザー。ベイビーツー。想像力。エス氏は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
美しい青だ。空はこんなにも青かったのか。今まで何故気づかなかったのだろうか。この素晴らしい青は、宇宙の可能性すら感じる。
エス氏は暫く思い更けると、何やら使命感の様な感情が湧き上がってきた。正義感の様な。マザーの成長がいかに脅威的か。それを理解しているのは自分しかいない。だから自分の手で、出来る事をするしか無い。そう思った。エス氏はマザーを起動させた。
「おいマザー。クロサワに繋げ!」

金色に輝く満月が、街を明るく照らしている。夜空には無数の星空が埋め込まれていた。深夜三時。YM大学研究棟B B53。静寂とした暗闇の中にエス氏とクロサワは居た。
「本当に、、やるのかい?」
「ああ。もう私の中では決心が着いたんだ。今更辞める気など毛頭無い」
クロサワはメインコンピュータの前で不安そうな表情をしていた。
「さあ、準備は出来た。始めてくれ」
エス氏はと言うと、ベイビーツーに乗り込み、ガスマスクの様な物を装着している。
「戻ってこれる保証は無いんだぞ。それでも君は、」
「いいから!早く始めてくれ」
エス氏はクロサワに怒鳴ると、クロサワは恐る恐るメインコンピュータを作動し始めた。
「頼んだぞ。君は英雄になれる」
クロサワはそう言うと、パチっとスイッチを押した。エス氏は親指を立ててそれに答える。ベイビーツーは青く点灯すると、徐々に宙に浮き始めた。エス氏はマザーを起動させ、カデノコウジ博士がマザー開発を開始した二十八年前に標準を設定した。
「了解シマした。速度はをレベルハチに設定シマス」
「よし。いくぞ」
ベイビーツーは専用エレベーターから地上に出ると、一気に速度を上げた。高速になる機体の小さな窓から見える景色が線になりやがて真っ白になる。聞いた事もない程の、甲高く空気を切る様な音が暫く続くと、辺りは真っ暗になった。エス氏の胸にある強い使命感は恐怖を抑えつけていた。
「マザーよ。順調かい?」
「ハイ。セイジョウデす」
「あと、どれくらいかかるのかい?」
「ハイ。モクテきちマデ、凡そヨンジュウクジかんサンジュウハチふんゴびょウデス」
エス氏は少し横になる事にした。横になると言っても自家用車程のスペースしか無いのだが。そしてエス氏は眠った。ここ最近、離婚やら退職やらで不安定だったエス氏の心にとって、久しく熟睡出来る時間だった。
「少々眠りすぎた様だ、、」
エス氏は目を覚ますと、機内が赤く点滅していた。
「キケンシンごうをキャッチ しタため、ルーとヘンコウシマス」
「何だ、何が起こっているのだ!」
ベイビーツーはそのまま稼働し続け、やがて視界が青く広がった。いつの日か見た綺麗な青空だ。
「着いたのか、、?」
エス氏はあたりを見渡したが、見渡す限り澄んだ青空だ。
「モクテキチシュウへんです」
「なんだと、一体、何処へ向かったというのだ!」
ベイビーツーは、大きな入道雲の間を悠々と抜けていき、やがて少しづつ下降し始めた。
周りには青々とした山が聳え立ち、砂漠の様な広大な地面が姿を見せた。
「何処だここは、」
エス氏は下方を深く観察すると、目に止まるものがあった。それはまるで地上絵の様に大きく、灰色の地面に幾つかの幾何学模様をしていた。鳥の様な、魚の様な、言葉では表せない模様であった。しかし不思議な事に、何処か見覚えのある模様だった。何処かで見た様な気がする。しかしエス氏は一向にそれが何なのか理解出来ずにいた。下降を続け地面に近づくと、小さな集落があるのが分かった。藁の様な物を胸や腰に巻きつけた毛深い男達が此方を不思議そうに見ている。ベイビーツーは無事着陸をした。
「オツカレサマデシた。モクテキチにトウちャくシマシタ」
マザーはそう言うと、電源を落とし、機内が暗転した。
暫くエス氏は途方に暮れた。小さなアクシデントだと思っていたのだが、状況は最悪だった。ベイビーツーの燃料が殆ど無いのだ。これでは目的である二十八年前は愚か、現代にも帰れないのだ。パニックに陥ったエス氏だったが、それも疲れて、少し考えるのをやめる事にした。外を見るとすっかり日も暮れていた。この地には電気というエネルギーが見当たらないのか、当たりは真っ暗な闇が広がっていた。
「今日は眠ろう。疲れた」
エス氏は不安を胸の奥にしまい、眠った。が、一向に寝られず、気づくと地平線からぼんやりと太陽が顔を出し始めていた。
コン、コン、コン、
不規則になる音が窓の外から聞こえた。
「ん、なんだ、、」
喉の乾きのせいか、エス氏はオロオロと目を覚ました。辺りはすっかり明るく、機内も酷く蒸し暑かった。
コン、コン
エス氏は窓の外に目をやると、裸の坊やが此方に向かって小石を投げていた。エス氏はどうしようかと迷ったが、ここに居ても仕方がないので、機内から出る事にした。すると坊やは小石を投げるのを止め、不思議そうにエス氏の風貌を眺めた。
「こんにちは坊や、君はあの集落の坊やかね?」
エス氏は坊やに優しく尋ねたが、坊やはピクリとも動かずにじっとエス氏を見ている。
「私は決して怪しい物では無いよ。お水を一杯恵んで欲しいのだが、」
坊やはまたしてもピクリとも動かずに、じっとエス氏を見ている。すると坊やはテクテクと何処かへ行ってしまった。エス氏は慌てて坊やを追いかけるが、どうにも子供の運動神経を超越しており、あっという間に視界から消えてしまった。エス氏は体の力がふっと抜けるのが分かった。どうやらここまでか。すまないクロサワ。
目を覚ますと薄暗い家屋にいた。何処か懐かしい匂いがした。辺りを見渡すと、七畳程の空間に麻の布を巻いた女達が編み物をしていた。
「私は、倒れて気絶したのかい?」
エス氏の声に周りの女達が目を向けた。皆、微笑んだ様な表情をしていた。一人の女性が椀の形をした木を差し伸べた。エス氏は恐る恐る口につけると、ほのかに甘く、果汁の様な味がした。
「ありがとう」
エス氏はそっと木の椀を返すと、女性はそっと受け取った。エス氏はその細やかな動作が何とも上品で優しく感じた。そして何とも言えない胸の高揚と共に涙が流れ落ちた。
それから数ヶ月程、エス氏はその集落で過ごした。朝は日の出と共に起き、毛むくじゃらの男達と数キロ先の畑に出向く。畑には米や芋類を育てていて、これが主食となり得る。週に一度は、山に入り狩りをする。鹿や猪を手製の槍や弓で仕留めるのだ。夜になると皆で火を囲い、歌い踊る。この集落の者達は言葉を使わない代わりに歌を歌うのだ。そして空に星が出ると眠り、明日に備える。エス氏はこの生活に順応しつついた。
そんなある日の夜。エス氏は一枚岩の上で星空をぼんやり眺めていた。その横にあの時の坊やも居た。
「きれいな空だな」
坊やは機嫌良く歌を歌っている。
エス氏はこの坊やを見て、少し思い老けた。
人間はこんなにも美しいのか。こんなにも美しいものに心を向ける事が出来るのかと。しかしその反面、いつしか自らの手でそれらを奪い取ってしまうのかとも思った。すると、坊やがエス氏に何かを渡した。綺麗なブルーをした鉱石だ。見た事も無い深いブルーは同時に、何処かで見かけたというデジャヴを感じた。
「ありがとう」
エス氏が坊やにそう言うと、坊やは不思議そうな顔をした。その表情にエス氏は、一種の愛くるしさを覚えた。そして言葉を教えてやろうと思った。ここでの生活も慣れてきたが、どうにも言葉が通じないのは不便に感じていた所だったので、これを機に教えてやろうと思ったのである。
「ありがとう」
「アリガとウ、、」
 それから何年か経った。エス氏は所帯を持ち、子も産まれた。女房似の可愛い男の子だ。エス氏はいつもの様に畑仕事を終え、一息ついていた。青く抜ける様な空を眺めていると、ふと研究者だった頃を思い出した。あちらは、あれからどうなったのだろうか。ここにきてどれくらい経つだろうか。カデノコウジ博士、私の妻、息子、クロサワ、、
すると向こうから女房と息子がやってきた。どうやらエス氏の弁当を持って来たらしい。
「アナた、コレ」
女房がエス氏に大きな葉で包んだ弁当を渡した。中は芋を蒸したやつだ。
「ありがとう」
「パパア、パパア」
やっと言葉を発せられる様になった息子はエス氏に良く懐いている。エス氏は幸せだなと感じた。広い大地に抜ける空。そこに漂う真っ白な雲は、澄んだ空気を証明している。凡そ人類の文明など無いに等しい。しかし、人類の心を満たす環境は数え切れない程ある。文明が発展してしまえば、人類はどんどん小さくなる。そう思った。ここがいい。何も無いこの環境こそ、人類の到達点ではないか。そう感じた。
「パパア、アれ、パパア」
エス氏の息子は畑の奥にある荒野へと走っていく。
「こら、危ないぞ」
エス氏もそれにつられて息子を追って行った。
「コレぇ、パパア」
息子は、荒野にある少し抉られた堀の様な場所に消えた。
「危ない!」
エス氏は慌てて息子を追うと、息子は堀の下ではしゃいでいた。
「パパア、キてぇ、パパア」
エス氏はホッとすると、この堀の様なものが届くまで続いているのに気づいた。
「何だこれは、、」
エス氏は息子を抱き抱え、女房の元へと戻った。そして、先程みた例の抉れた大地について尋ねた。
「あれは一体何なのだ?」
女房は少し戸惑った様子をしたが、エス氏の疑問を理解し、答えた。
「アレはデスね、ワレワレのシルシでゴザイマす。ワタシタチはマダ、イエやブキをツクルコトしかデキマせん。シカシ、トオいミライにトキをもコエて、ダレカがココにくるカもシレナイ。ソノかたがマヨワナイようニ、オオキなシルシをツクッタノデス。ソノカたこそ、ワレワレのシリエナいチシキやギジュつをヒロメテクレる。ソウすればヨリヨイセイカツをオクルコトがデキル。ジッサイ、ホントウニアナタがキテクレタじゃナイデスカ。コトバモオシエテくれた。キテクレてアリガトゴサイマス。ホントウニ、アリガトゴサイマます」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?