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8月になると、・・・        太平洋戦争の犠牲者を思う

追悼の季節

 毎年、梅雨が明け、暑い夏が始まると、太平洋戦争での犠牲者を思い、平和を祈る季節がやってくる。
 8月6日(広島)、8月9日(長崎)、8月19日(終戦)
 この時期には、お盆の時期と重なり、戦争の犠牲と、ご先祖様との繋がりを考える季節でもある。

登校時間・出勤時間が狙われた!

 広島の原爆投下時刻は、8時15分とされている。
 この時刻は、市街地に最も多くの人口が集まる時間であり、かつ、多くの人々が通勤、通学や労働奉仕等で外で活動していた時間帯である。一つの爆弾で、最大限の効果を得るために、また、史上初の原爆使用で、その成果を正確に記録し評価するため、原爆開発関係者は苦心していたようである。
 投下目標選定理由の一つは、それまでに、焼夷弾の投下等の戦闘が行われていない都市であること。そのため、その時まで、それまでに空襲の被害がない広島、小倉、長崎、京都などが候補にながった。次に、近代的な都市であること。近代的なコンクリート構造の建物が多くある市街地であることが必要とされた。第2次世界大戦後に、全世界に睨みを利かせるため、近代的な都市に対する大々的な威嚇のデモンストレーションでなければならない。そのため、京都は外された。一説として、その当時、日本と交流があった政治家や知識人たちが京都への空襲に反対していたという見解はこれまであるものの、大きな道路が格子状に整備されていた京都市への焼夷弾等の投下は、軍事的には効果が薄いと、純粋に軍事的観点から、たまたま、攻撃優先順位が低げられただけであったと考えた方が論理的であろう。
 さて、これまで述べた、実験として、原爆投下がされたという主張を裏付けるような記録が少なからず残っている。

 Wikibedeia日本語版の「広島市手の原爆投下」の記事では次のような記載が見られる。

『8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。その離陸から2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29が飛び立った。すなわちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、うち4機が広島上空へ向かっていたことになる。テニアン島から広島市までは約7時間の飛行で到達できる。
 この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。』このように、正確な映像記録を撮れることが、投下目標の都市を決定するのに最も重視されたことからも、米軍による日本への原爆投下が、実験目的が第一であったことを物語っている。

 残念なことに、いくつもの偶然が重なり、結果として被害を最大化させることになった。
『ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった。ラジオによる警報の放送もなかった。8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート(9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という誤った流説が流れた。』
 少なくとも、防空警報が出されていれば、また、観測用ラジオゾンデを呑気に眺めていなければ、もう少し早い時間であったら、・・・。と考えると結果があまりにも悲惨であったので、とても残念である。

 当日労働徴用され当時山陽工業2年生だった石田英雄氏は、府中にある動員先の工場(爆心地より4.2km)で被爆をした当時の経験を次の様に語っています。(詳細は下記のリンクよりご覧ください。)

 アメリカの映画や一部の学者の中には、原爆の直撃さえ避けられれば、何とか生き延びることができるのではないかと安易に考えている人がいるようですが、実際は次の小学校の悲劇を見るとわかります。

 広島市内で最初の鉄筋コンクリート3階建ての本川尋常小学校では、爆心地から、410メートルの至近距離のため、400名を超える小学生と10名の教員が犠牲になりました。そして、運良く生き延びることができたのは、わずか「2名」でした。鉄筋コンクリートの近代的な校舎は倒壊は免れたものの、子どもや先生たちを守ることはできなかったのです。
 仮に、地下の避難豪があれば、被害は変わっていた可能性が高いと思います。

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