AI vs 体験の学び

 ある方のお手紙で「冷暖自知」の紹介がありました。

  水の冷たさ、温かさは、自分で手を入れて初めて感知できる。
  悟りが他人から教えられるものではなく、自分で会得するものであることのたとえ。

 簡単に言うと「体験したものでなければ分からない」ということです。
 例えば、トイレ掃除なんかも同じだなと思いました。その良さ、終わった後の清々しさなどは、口で説明しても、本を読んでも、体験しない事には、本当の事はわからないと感じます。だからこそ、多くの人に体験してほしいと、声をかけたり、誘ったり、活動を広げようとします。
 ただ、お便りの続きに臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺老師の解説が、こうありました。

 あまり体験主義に偏ってしまうと、その体験を競い合ったり、体験しない人を蔑んだりして新たな差別を生んだりしてしまいます。体験を大切にしながらも、しかもそれにとらわれないことが必要であります。

 「よいことだ!(だから、やっていない人はおかしいんじゃないか?)」という思いが強すぎると、自分のやっていることに無反省、独善性が強くなりやいです。特に指導者の立場にいる人は「その人ため(になる)」と思って、いろいろやりますが、独善的になると相手との関係が悪くなります。分かっていてもやれないこと、どうしても合わないこと、いろいろ事情があります。自分が体験した「よい事」だからと、自分の気持ちだけで突っ走ってしまうと、やらない「相手が悪い」と言って、余計、自分を省みなくなる危うさもあります。

 クリック一つで検索できる時代。問いかければ、すぐに「答え」がかえってくる時代。必要な情報はすぐに手に入れられますし、それをもとに評論家的なことは飾りをつけていくらでも言えます。しかし、本当に大切な情報ほど、直接対面し、自分の五感を通じ、感性でつかむしかありません。 

 記憶に残る学び方として、次のような研究結果があるそうです。

・聞いたことは  10%
・見たことは   15%
・聞いて見た時は 20%
・話し合った時は 40%
・体験した時は  80%
・教えた時は   90%

 自分が体験したことを表現(アウトプット)することは、深い学びにつながります。

皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです
 

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