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邪馬台国は見つかっていた【23】九州南回り航路は存在した

レン:
異議ありです!このルートにはまだ疑問が残っていますよ。邪馬台国が大和にしろ、徳島にしろ、瀬戸内海方面に行くならどうして関門海峡を通らないんですか。

ゆい:
本当ね。なぜこんなに遠回りをするの?

図表50

おじ:
確かに、九州の南端を回るこれらのコースは非常に遠回りだ。本当にこんな航路があったのか、2人が疑問に思うのも当然だね。けれどこの効率の悪い航路は、当時実際に利用されていたんだ。

レン:
九州を南に回る航路が存在したと言える根拠はあるんですか?

おじ:
うん。邪馬台国の時代よりあとの時代にも九州南回り航路が利用されていたことが、日本書紀に書かれているんだ。この地図を見てごらん。

図表51

おじ:
これは邪馬台国の時代から半世紀~1世紀後、12代景行天皇が熊襲くまそ征伐のために九州に遠征した時の航路だよ。瀬戸内海から九州の南端を回って、福岡に至るルートが詳しく記されている。

ゆい:
確かに福岡まで行くために、関門海峡を通らずに九州を1周しているね。けど、熊襲くまそは現在の九州南部の地域なのだから、このルートを通るのは当然じゃない?

おじ:
驚くのは、最終地点のいくは(現在の福岡県うきは市)から大和に戻るときも同じコースを逆に進んだんだ。

ゆい:
え?あと少しで玄界灘に出られるのに?

おじ:
うん。いくはから博多まではおよそ40km。そこから関門海峡を通ればすぐに瀬戸内海に行けるのに、一行は、わざわざ九州の南側を一周して大和に戻っている。

ゆい:
遠回りをする特別な理由が、あったんじゃないの?

おじ:
日本書紀には特に何も記されていない。記録が無いということは書き残すような事情も無く、通常どおりの帰路だったということだ。つまり、邪馬台国の時代から50年後も九州南回り航路が存在していたということになる。

ゆい:へー!

レン:
確かにこれは、九州南回り航路が存在した根拠になりますね。

おじ:
景行天皇の記録は、僕たちが倭人伝をもとに導き出したルートとぴたりと一致している。邪馬台国へのルートが九州南回り航路だったことを補強、立証してくれる重要な材料だよ。九州南回り航路は決して奇をてらったものではなく、実際に後世まで利用されていたんだ。
 
レン:
なぜ古代の人たちは関門海峡を利用しなかったんですか?

おじ:
あくまで推測だが、当時の関門海峡周辺の国々が、邪馬台国や大和政権の支配下になかったからだろう。関門海峡の存在自体を知らなかったのかもしれない。それについては興味深い話が日本書紀にあるんだけど、長くなるからまた別の機会に話すよ。九州南回り航路に対する疑問は解けたかな?

レン:
はい。最初は九州一周だなんて現実離れした考えだと思ったけど、実際に後世まで利用されていた航路だとわかりました。

【24】につづく

朝焼けの関門海峡(photoAC)


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