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邪馬台国は見つかっていた【16】 「南に船で30日」は倭人の説明不足だった

おじ:
邪馬台国までの国々もいよいよ残り2つ、投馬国と邪馬台国だ。

狗邪韓国(韓国)
  ↓     渡海一千余里
対馬国(対馬)
  ↓     渡海一千余里
一支国(壱岐)
  ↓     渡海一千余里
末盧国(唐津)
  ↓  東南  五百里
伊都国(東多久)
  ↓  東南  百里
奴 国(牛津)
  ↓  東   百里
不弥国(嘉瀬津)
  ↓  南   水行二十日
投馬国
  ↓  南   水行十日 陸行一月
邪馬台国

おじ:
まずは倭人伝の内容を確認してみよう。

南至投馬國 水行二十日 
南に向かって船で20日行けば投馬国に着く)

南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月 
南に向かって進むと女王が都を置いている邪馬台国に到着するが、船で行けば10日かかり、陸路を行くと一ヵ月かかる)

ゆい:
不弥ふみ国(佐賀平野)から邪馬台国まで合わせて「船で南に30日」進むことになるね。

図表31

レン:
佐賀平野から「南に船で30日」進むとどのあたりになるんですか?

おじ:
常識的に考えて、鹿児島県を通りすぎて南の海上へ出てしまう。投馬国も邪馬台国も『南方海上』にあったということになってしまうんだ。

ゆい:
それは明らかに間違っているね。どうして倭人伝には「南に船で30日」なんて書かれたの?

おじ:
【8】で帯方郡使の足取りを検証したとおり、彼は不弥ふみ国(佐賀平野)までしか行かなかった。だから投馬とま国と邪馬台国の情報は倭人からの伝聞に頼るしかなかった。「南に船で30日」は倭人から教わった情報だったということになる。

ゆい:
じゃあ、なぜ倭人は間違ったことを教えたの?

おじ:
一般的に考えられる理由は、途中での進路変更だ。船は確かに佐賀平野から南に向けて出港した。しかし、どこまでも南を向いて進んだのではなく、ある地点で西か東に方向を変えたんだ。

ゆい:
なるほどね。出航した方角が南だったから投馬とま国も「南」と書かれてしまったのね。 

おじ:
さらに進路変更のポイントは出航した港からかなり遠いところだったはずだ。もし近いところだったら、何らかの形で帯方郡使の耳にも入っていたはずだからね。彼は邪馬台国まで行くわけではないので、倭人も先々の航路を詳しく説明しなかったんだ。

レン:
「南に船で30日」は倭人の説明不足だったんですね。

ゆい:
船が途中で進路変更したっていうのは本当に正しいの?

おじ:
それは当時の航海方法を考えたら簡単にわかるよ。前にも言ったように古代の航海は岸沿いに船を進める沿岸航法だった。その方が安全だったし、水も食料も睡眠も全て陸地に頼っていたからだ。何日も岸を離れて太平洋を乗り切ることは不可能なので、佐賀平野から30日間も南に航海することはなかったはずだよ。

ゆい:
確かにそうね。

おじ:
帯方郡使は実際に邪馬台国に行ったわけではないので、航路の確認まではできなかったんだ。

レン:
これまで論争の種になっていた「船で南に30日」は、倭人伝を記した帯方郡使が間違っていたのではなく、それを教えた倭人が間違っていたんですね。

ゆい:
結果的には間違っていたけど、そう思うのは現代の私たちで、倭人も間違ったことを教えたつもりはなかったんじゃないかな。

おじ:
そうだね。こうして帯方郡使の足取りと当時の航海方法がわかると「途中での進路変更」という答えが見つかり、「南方海上の邪馬台国」の謎が解けるんだよ。


※見出しの写真はみんなのフォトギャラリーから、カセットboyさんの「有明海海苔棚の夕景」を使わせていただきました。ありがとうございます。

【17】につづく


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