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邪馬台国は見つかっていた【17】進路変更した地点を明らかにする

ゆい:
船が進路変更をしたポイントはどこなの?

おじ:
九州の地図を見てごらん。佐賀平野から南に向けて出港し、西か東に進路変更できる箇所は2つしかないんだ。どこだかわかるかい?

図表32

レン:
長崎県の島原半島に沿って西に行くか、鹿児島まで南下して東に行くかですね。

おじ:
そのとおり。2人はどちらだと思う?

図表33

ゆい:
Aのコースだと、20日~30日も船で進んだら、五島列島を超えて大海原に出ちゃう。それはおかしいと思うな。

レン:
Bの大隅半島を回るコースは、海岸沿い航法で安全に航行できると思います。

おじ:
そうだね。コースAだと行先は五島列島か、さらに進めば中国になり、ここまでの行程を考えても不自然だ。佐賀平野にも近く、進路変更の情報が帯方郡使の耳にも入ったはずだ。対してコースBはレンくんの言うように沿岸航法が可能になる。出発地点の佐賀平野からも遠く、倭人の説明不足とも合致する。常識的に判断して、コースBと考えるのが妥当だね。

レン:
投馬国へ向かう船は佐賀平野を出航して九州の最南端まで南下し、大隅半島で東に進路変更をしていたんですね。

図表34

おじ:
うん。「船で南に30日」の真相は、倭人伝を書いた帯方郡使が間違っていたのではなく、それを教えた倭人の説明不足によるものだった。実際は南に30日間進んだのではなく、鹿児島県の大隅半島で東に進路変更をしていた。これで「南方海上の邪馬台国」問題に決着がついただろう?

ゆい:
そうね。ついに「船で南に30日」の謎を突破したね。


【16】~【17】のまとめ

・なぜ「南に船で30日」と書かれたのか?
 ⇒「南に30日」は倭人の説明不足だった。実際には途中で進路変更をした。
・どこで進路変更をしたのか ?
 ⇒鹿児島県の大隅半島で東に向きを変えた。


【18】につづく


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