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君の絵-2

1,
2022年7月。僕の勤めていたstudioで送迎会が行われていた。
僕は65歳になっていた、自分の退職を祝ってくれている。
今の時代フリーランスのengineerが多い中、僕は一途に同じ会社にいた。
近年はもう現役のengineerではなく、資料整理とか他のengineerのスケジューリングが毎日を仕事で、いささか飽きていた。
還暦を機に会社はやめようと思ってはいたが、管理する人が足りずやむなく定年延長となった。
50歳を過ぎた頃、仕事が急激に少なくなってきた。まあ周りの演出家やcameraman、照明技師もどんどん若手に代替わりしてきたので、しょうがないかな、と思った。
ある冬の日、自分が住んでいる近くの海に行って見た。そこには何が楽しいかはわからないが常に笑っているsurferがいっぱいいた。
明らかに自分は冬着だ。おそらく気温は10度以下。この寒いのになんで海の中に入る、と不思議に思った。
と同時に、今自分がやっていることにとても違和感があり、まあ仕事も少なくなってきたから、という理由で自分も突然surfinをやって見たくなった。
海の近くにはいっぱいサーフショップがある。ボードはいろんな種類があって何に乗っていいのかすらわからず、休日ごとにショップの周りを歩き回っていた。
そんなある日、ボディーボード、というものを扱っている店の前にきたとき、まるで黒人かと思うくらい真っ黒に日焼けしたお店の人に声をかけられた。
”あの、どれ乗っていいか、わからないんですよね?最近しょっちゅうここら辺歩いてるよね?そんな時はこれ!!ボディーボードしかないっしょ!”
ということでその小さな板でsurfするボディーボードを始めることになった。
その板は自分の半分にも満たないし、柔らかいし、こんなものでサーフィンできるのかなーと僕は半信半疑で始めた。
最初はスクールみたいな感じで何人かと海岸へ出た。。海水浴とは全く違う開放感がいっぱいあった。
基本の動きをお店の人に教わってからあとは海に入るだけだ。
これだけで気分はsurferの感じがした。今までに全く感じたことのない充実感を自分は感じた。
2,
 冬が終わり、4月のある日僕は会社に行く前いつも通りのルーティンで海の上にいた。準備運動をし、海に敬意を払い、ゆっくりの沖に出て行く。
 水平線にやっと陽の光が見えてくるこの瞬間が僕は好きだ。空の色、そして海にうつる雲の形、撮影的にはマジックタイムっていう朝の時間、その時間に僕はあれから毎日のように海に入っていた。
 顔は誰かもわからないくらい真っ黒になっていた。ウエットスーツから唯一出ている手、足も真っ黒になっていた。
 波を待つことは、波の波動を感じることであり、波の周期を図り、いくつかくるうねりの中で一番自分が良いと思った波に乗る。それがうまく行くときもあるしそうでもないこともある。それが波に乗る、ということかなーとまだまだ初心者の自分はそう思っていた。
 波があること必ず会えるあの店主は、見事なまでに波を把握し滑って行く。この小さい板で波のボトムまですごいスピードで降りてゆき、一番下で綺麗にターンし
、また波の頂点に戻り波のfaceを切り裂くように滑って行く。芸術的だ。きっといつか自分もあんな風になれるかなー、と笑顔になってくるのだ。
 サーフィンを始めたら自分の周りの環境は180度変わった。
 付き合う人達は今までとか全く違う人種といっても良い。
 常にHappyで波のことしか話さない。お互いの仕事も知らない。海の上で繋がっているだけなのだ。今までstudioという箱の中しか知らない自分にとっては未知の世界がずーっと広がっている、そんな感じだ。
 Bikeの世界と少し似ている感じがする。特に波のtopから滑り落ちて行く感覚は頂上から降り始めて行くダウンヒル的な感覚によく似ている。ターンするときの感覚もコーナリングの感じに似ているし、自分にはあっているんだろう、と思った。
3,
 定年のお祝い会は続いている。監督、カメラマン、照明、CMの制作の方、いろんな知り合いが集まって話が弾んでいた。サーフィンで知り合った撮影関係の仲間もいっぱいきていた。
 そんな中背の高い白髪混じりの男が近づいてきた。そして自分の目の前で止まった。
 ”お久しぶりです、覚えてますか?”
 もう30年も前にやめていった後輩だった。彼はここのstudioをやめ映像の制作会社を仲間たちとやっていたようだ。当時の話で花がさき、盛り上がってきた。自分が今でいうとパワハラだらけだったこと、朝まで酒を飲んで会社の前で寝ていたこと、仕事で監督と大げんかになったこと、などなど話は尽きなかった。
 ”ところで、あの彼のこと覚えてます?”
 最初は何のことか全く思い出さなかったが話しているうちに急に20代の自分が蘇ってきた。自分とライバルだったグラフィックデザイナーの彼のこと。日本一周のスライド、スティーリー・ダンの曲、そして彼が亡くなる前に約束したこと。忘れていた、、、、、不覚だった。
 何回も見たあの景色、それはいった事は無いけど、自分が言ったかのような錯覚をさせてくれたあのスライド。
 彼が亡くなった後、なんか使命感みたいなものがあり、彼のスライドを全部video化して彼の親族に渡したい、と思い、会社の中で撮影を始めた。スライドを1枚づつ白ホリに投射しvideo cameraで撮影していく。1枚のfixだけではなくカメラのアングルは少しづつ変え、時にはzoom in/outしたりパンニングしたりと撮影した。結局1枚のスライドを撮影すると3時間くらいかかっていた。
 撮影し終わったvideoを編集する。もちろん音楽はスティーリーダンだ。いつも聴いていたAja,Gaucho,Night Flyの曲を中心に音に合わせて編集をしていく。撮影も編集も会社の後輩に、仕事が終わった後にやってもらうことにしたので、それはもう彼らにとっては苦痛だっただろうけど、半年かけて映像は完成した。”Photographer"とタイトルをつけた。それを彼のお姉さんに渡しに行った。喜んだのか迷惑だったのかは当時は分からずにいた。
 僕は送迎会が早く終わらないかなーと思うようになっていた。早く帰って"Photographer"のビデオを探したかった。

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