本の感想:「発達障害考察本」
藁にすがる思いで買ったままになっていた来未炳吾(平極ルミ)氏「発達障害考察本」を読んだ。タイトルにグレーゾーンとついているが、自閉症スペクトラムの診断を受けた当事者の方の本です。
①不注意性に「ブレーキをかける」トレーニング
②会話の「人に伝える」トレーニング
③学習困難に対して「思考モード」を解除するトレーニングの3つが載っている。
①②は誰でも今すぐ出来る方法だが、③は環境を整える必要があり、労働者なら休日が必要です。(有給消化とか、休職中にやるのがおそらくベスト)
そして、私は一読しただけなので思考モードと感覚モードという概念についていまいち飲み込めていないので、噛み砕いて考えてみる。
あなたが休んでいるとき、本当にあなたは休んでいるか
「頭や漫画も目を追うので疲れます(ので禁止)」という一文を目で追った時、私は「えーそんなー」と思った。 読書が駄目なら文章を書くのも禁止なんだろうか。読書や文や絵を描くことは、労働の合間の私の唯一の心を慰めだというのに…しかし 、よく考えてみると。
死ぬほど疲れている時、私は絵を描いただろうか?本を読んだだろうか?
当然描いてません。疲れるから。
あれ。私の趣味って、ぜんぶ頭を使うことじゃあないか?
絵は長い間描かなければ罪悪感を感じたし、疲れているほど「精神的慰め」のため本を1ページでも読んだりした。夜に思い出して怖くなるのに、学生時代から犯罪や事件系の本ばかり読んでいた。
音楽を部屋で流すのも大好きで、一度事故を起こしている(幸い怪我無し)にも関わらず運転中に流すCDにこだわりがあって、その時の自分の気分に合ったものでなくてはならないし、むしろ私が音楽に合わせて気分を変えて…そんな事をしているからますますイヤーワームが止まらなくて…あれ、これって本当に休めているか?
私が「気が安らぐ、回復する」と思っているものは、精神は慰められるが、脳には負担がかかるたぐいの事じゃないか?
私はもう一度自分の休むという感覚を疑うことにした。「疲れているのがデフォルト」の障害である。初期設定から疑わなければならない。
私はかつて病院に行くきっかけになった「周囲や世の中ではなく、自分の方がおかしいのではないかと疑った」時の、人生の価値そのものがひっくり返るような衝撃と、その機会が訪れた後と前で、天地の差がある事を身に沁みて知っていた。
(その時の事はまたのちに書きます)
本書では、発達障害というラベルをひっぺがして広い視点で捉えた考察がされている。
発達障害者/グレーゾーン/HSP/アダルトチルドレン/早口オタク/人付き合い苦手な人 が同じコミュ障という症状でダブる部分があるのか、その共通点は考えすぎて止まる人、だろうか。
勉強からコミニュケーション、人生の生き方にも通じるのだが、「それはそういうもの」として一旦わきに置けない人は、生きづらさを抱える傾向があるように思える。
虐待や劣悪な環境下に居た人の脳と発達障害者のそれは同質というのも大いに納得ができる。
つまり
あるがまま(空気が読めない)感覚で生きている
↓
いじめに合ったり、他人と自分を比較して自分を疑う
↓
客観視の過程で、生来言葉通りに受け取るのに、定型の振る舞いをマニュアル化しなければならないのでますます言語化と自己分析に磨きがかかる
↓
本来なら感覚で行わなければならない事ができなくなる
↓
言葉依存症発症
たとえるなら普通に階段登ればいいのに、言葉という手すりにしがみついてぶら下がっている状態でしょうか。言葉だけが頼りなのに、おまけに聴き取れなかったり見落としたりするのでますますしがみついてしまう。
けして多くはないページ数ですが、発達障害とはどういう状態なのか、どれだけポンコツなのかまで綿密な分析力を持って容赦なく丁寧にわかりやすく言語化しているので内容は濃い。
心構えを変えたり祈ったり誓ったりする程度で発達障害は良くなるわけがない。内に注がれる意識を身体に、外に外に持っていかなきゃならないと。
感覚の他に魂を癒せるものはないからね、ちょうど魂のほかに感覚を癒せるものがないようにね
ってヘンリー卿が言ってた。
デスクワークは、避けた方がいいんでしょうね。ネット回線繋がってると子供がオモチャ箱の上で勉強するようなものですから…
発達障害=依存症説の章だけでも読み応えのある一冊。発達障害当事者なら自己分析の解像度がグンと上がる。
なぜだか記事を書いている間、カルト脱会者が書いた本を思い出してしまった。自分の常識を疑うって、すごい事なんです。
それまでの年月は短ければ短いほど、いいんです。