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意識と心②~意識=TV仮説

意識というワードを整理する 

話は「基本認識」の領域です。

私が今、とても重要だとなと考えているのは、例えば「意識」という単語そのものについて、皆がどの程度共通するイメージを有しているかについてだったりします。

これは私なりの所感なのですが、巷間流れる「意識」にまつわる話題は、実のところ「意識」についてあまり正しい形で語っていないのではないか。 

勿論、当の私自身整然とは理解出来ていないということでもあります。

この辺りの認識については、今や有名人でいらっしゃいますが、茂木健一郎先生の著書であったり、配信などを拝見するといくらか感覚が掴めます。

「私たちは殆ど理解していない」ということを。

科学者ではない私なりに、その解りにくさを言葉でお示ししてみます。

まずは意識と思考の関係。
「私は思考する」とした場合、
・私=意識
・思考=脳の機能の一部
と、一応は仕分け出来ます。

「私=意識」が、脳に対し考えなさいと指令した、とも取れます。
少なくとも実感としてはそう。

実際はこの時点で既に、意識が持つ権能みたいなものについての見解は分かれますし、受動意識仮説みたいな話も出ちゃいますが、先に進みましょう。

次は「私は(○○のために)思考する」としてみます。

この「○○のために」は、一種のモチベーション、広くは意欲や意図、意思といったところ。

では、この意欲、意図などはどこからやってくるのでしょう。

この問いに即答できる方はナカナカな訳ですが、実際はどうでしょう。
この辺から、意識や心にまつわる言葉、表現の複雑さが見え始めます。

我が家の優秀なアシスタント、Copilotのコパちゃんに解説をお願いしました。

【私からの質問(プロンプト)】
意識と意図との違いについて、それぞれの科学的な意味合いを含めて解説してください。

【コパちゃんの回答】
意識と意図は、しばしば混同されがちですが、科学的な観点からは異なる概念として理解されています。

**意識**は、自分自身の存在や周囲の環境についての認識を指し、自分の感覚や思考、感情を経験する能力を含みます。脳科学では、意識は大脳皮質に関連しており、私たちが自分の内面と外界を認識し、それについて考えることができる状態を指します¹。

一方で、**意図**は、特定の目的や結果を達成するために行動を起こすことを意味します。これは、計画や目標に基づいて意識的な選択を行い、それに従って行動する能力を指します。意図は、意識的な決定と行動の間の橋渡しとなるもので、私たちが何をしようとしているのか、どのようにそれを達成しようとしているのかに関連しています³。

簡単に言えば、意識は「感じる」ことに関連し、意図は「行動する」ことに関連しています。意識は私たちが経験する感覚や感情の流れを伴い、意図はそれらの経験を基にした具体的な行動計画や目標に焦点を当てます。意識は受動的な状態であり、意図はより能動的なプロセスです。意識は私たちが「今ここにいる」という感覚を持つことを可能にし、意図は私たちが「ここからどこへ行くか」という方向性を決定します。意識は私たちが世界をどのように経験するかに影響を与え、意図は私たちがその経験をどのように使うかを決定します。

ソース: Copilot との会話、 2024/5/29

いやはやです。

ここで、私が敢えて「意図」というキーワードを対比させたのは、ひとつには「意識」という言葉のみを広辞苑的に引くと、どうにも理解が宙に浮いてしまう気がするからです。

この紐解きで少しばかり整理ができます。
私たちは、意識というものに対し、様々な意味を与え過ぎている感じがするのです。

例えば「やる気」。先程のモチベーションと同義ですね。

「意識の奥底からやる気が湧き上がる」なんて表現。言葉としては凄く良く分かります。
しかし、意識の機能をより正確に表現するのならば、「どこか奥底から、やる気が沸々と湧き上がるのを、私の意識は感じ取っていた」となる。

もう少し、色々な角度から整理してみます。

「意識不明」これは意味、状態として正しい表現でしょう。

「意識が高い」これはかなり的外れな表現な気がします。意識そのものに高いも低いもない。

「意識する」「意識を向ける」これは意識本来の機能の表現としては正しい気もします。

「自意識過剰」これは何か変な表現。

勿論、全て理解はできます。
言葉としての「意識」と、機能としての「意識」は違う、ということではありましょう。
でも、色々な話が噛み合わなくなる要因もそこには有るのです。

そして、私が最重要だと考える仕分け。
「意識を変える」
「意識改革」

果たして本当にできるのでしょうか。

意識の本質はもっと純粋でシンプルなものだと思います。
例えば、昨日まで「赤」と感じていたものを今日からは「青」と感じて下さいとなれば、それは真の「意識改革」となるけれど、出来ません。

繰り返しですが、言葉の意図、謂わんとしていることは勿論理解出来るし、私自身何の気無しに用いてきた表現です。

「引き寄せ」に限らず、自己啓発やビジネススキル系の話、政治の世界でも「意識を変える」は多用されます。
100%間違っているとは申しませんが、意識そのものの機能を考えるに、おそらく正しくは、

「意識の照準を変える」

なのです。


少々粗い例えではありますが、意識とはテレビのようなものだと言えます。
私たちの内面において、様々な情報を脳裏に映し出すディスプレイだとしましょう。

状況として、私たちの内部にあるディスプレイを、ブラウン管式のアナログテレビからデジタル4Kの液晶テレビに買い換えたなら「意識は変わった」となります。
具体的には何が変わるでしょうか。
大型化し、映りが良くなる、そんなところでしょう。

でも、本来望む変化とは何ですか?

そう、映し出される番組であり、コンテンツです。
チャンネルが変えられなければ意味がない、そういうことなんです。

ここでいったんまとめますと、意識とは私たちの内面に据えられたテレビのようなものではないか、その例えで部分的には正しいかなと思います。
そのテレビ(意識)自体はすげ替えられないし、変えても余り意味がない。
変えられるのはチャンネルであり、それは意識の「照準」を変えるのに類似していること。
この例えには更に発展形があるのですが、また機会を改めます。


さて、「意識=テレビ説」について、私自ら「部分的には正しい」という言い訳付きで用いています。

あくまで、意識そのものの機能面を部分的に説明するには解りやすい、そんな趣旨です。とても全ては説明し切れませんし、本題はこの先にあります。

皆さんが、そして私が一番知りたい部分にあたる問題。

その一つは、仮に意識がテレビのようなものであるとして、そのテレビを観ているのは誰か、という問題です。

それが「私」という存在であるのは確かです。
でも、その「私」はどこにいるのでしょうか。
意識の内側ですか?意識の外側ですか?

感覚的には「私=顕在意識」と分類するのが合理的かな、とは思われます。
ただ、私たちはどうにも、意識の外に「私」が存在するように感じてしまう。
そこに心や魂の領域を見出してしまう訳です。
今の私には、そのどちらも否定出来ません。

もう一つの問題は、仮に意識がテレビのようなものだとして、チャンネルを選んでいるのは誰かというものです。

勿論、前出した「私」が選んでいる場合もあるでしょう。
しかし、この「意識テレビ」は24時間365日流れている感があります。「私」が能動的にチャンネルを選択しているのは極僅かで、それすらもちょっと怪しい。

そう、そこに顔を出すのが潜在意識(無意識)。

意識の遡上にある「私」を差し置いて、常にチャンネル争いの主導権を握るのが、もう一人の私とも言える潜在意識である。

私なりの結論です。


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