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毛利秀元と側室・本光院について

今回は実質的な第一弾として毛利秀元と本光院について述べて行こうと思う。とはいえ毛利秀元に関しては著名な人物であり、事績などは様々な媒体で既に触れられているのでここでは個人的に興味を持った事柄について触れていきたい。 


毛利秀元と側室本光院・長沼カヤ(イラスト:青森様)

<略歴>
毛利秀元は天正7年11月7日(1579年11月25日)に穂井田元清の次男として備中猿掛城にて誕生する。母は元清正室の松渓妙寿で、彼女は村上通康の娘にして伊予守護・河野通直の異母姉にあたる(異説あり)人物である。秀元は天正12年(1584年)、実子のいなかった毛利輝元の養子となる。秀元の父元清は元就の庶子であるが他の正室所生である男子は吉川元春、小早川隆景の両人とも他家の当主となっており、毛利氏としてはこの時点で元清が最年長であることから継嗣に迎えられたと思われる。

継嗣となって以後は天正18年(1590年)に元服。養父輝元と共に広島城に居住し、天正20年(1592年)4月11日に肥前国名護屋城には向かう途上であった豊臣秀吉に広島城で面会し、豊臣政権公認のもと輝元の継嗣と認められる。
その後も文禄・慶長の役では広島城の留守居や輝元が病に臥した後は代理の総大将として活躍し、また秀吉の養女にして姪の大善院を娶るなど秀吉からも大いに期待されたと思われ、官位面に置いても正三位・参議となり公卿成するなど栄達する。ところが文禄4年(1595年)に輝元待望の嫡子・秀就が生まれると最終的には世嗣を辞退し別家を創設することとなる。これは秀就誕生以前に秀吉と輝元の間に定められていた事ではあったがこの別家としての「似合いの地」を巡り吉川広家らと対立、この問題は結局長門国及び周防の一部を領することで決着するものの、裁定に徳川家康の家中介入を招くなど禍根を残す事となった。

関ヶ原の戦いでは本戦では結局動かず、秀元は事実上の改易となり再び毛利家家臣として長府6万石を領する。その後は元継嗣として輝元を支え、藩主秀就の後見人として藩政を主導した。幕府からも毛利家の外交担当として信任され、大善院死後は陪臣ながら徳川家康養女の浄明院を継室に娶っている。ところが寛永7年(1630年)頃より主君秀就と不和になり、一時は独立を画策するなど対立は深刻化した。最終的には寛永13年(1636年)5月に幕府の仲介で秀就と和解。以後は将軍家光の御伽衆として江戸に住み、慶安3年(1650年)閏10月3日に江戸の下窪邸で亡くなる。享年72歳であった

以上が毛利秀元の略歴である。ここからは気になっ
た点について個別に述べていく。

<豊臣政権での秀元の立場>
豊臣政権において秀元は
①後に五大老に列する政権を代表する清華成大名の継嗣
②天下人にして関白太政大臣秀吉の数少ない娘婿
この2点が特徴として挙げられる
前者に関しては秀吉晩年まで徳川と石高等に置いて並び得る武家清華家・毛利の継嗣であり、当然ゆくゆくは輝元の跡を継いで豊臣政権を支える事が期待された。そしてこれを踏まえ秀元は秀吉の養女を娶り娘婿となる訳であるが、豊臣政権における秀吉の娘婿(確実でないものや猶子は除く)は徳川秀忠、宇喜多秀家、豊臣秀勝、吉川広家、そして毛利秀元とかなり人数が限られており、当該人物はそれだけ強い信任を得ていたことが伺える。

この中でも秀元と徳川秀忠は五大老の後継者、そして宇喜多秀家は五大老にして事実上の豊臣一門格と政権を内外から担う存在であった。また秀元の正室大善院は秀吉から見れば姪(弟秀長の娘)にあたり、養女の中でも唯一の血縁者とそれだけ秀元を期待し可愛がっていたと思われる。『毛利秀元記』351頁には船から転覆しかけた秀吉を秀元が救った話があり、この場面などは秀吉からの秀元への信頼を高めた様子が伺える。
「天下人の娘婿」としての立場は官位面にも表れ、正三位参議と公卿成を果たす。特に正三位に叙された事は従三位の養父輝元や五大老の上杉景勝よりも上位である。それだけに秀就誕生により秀元が継嗣を辞退した事は毛利家にとっても痛恨であった。これにより毛利家は実質豊臣家との当主としての血縁がリセットされ、縁戚から外れることとなった。また同時期に五大老にも列し、秀吉の信頼も厚く毛利家を支え続けた小早川隆景が死去した事も相まって豊臣政権中での立ち位置が急落。結局秀吉死去後の五大老・五奉行体制では徳川・前田の後塵を拝する事となった。

<江戸幕府成立後・陪臣としての秀元>
前述のように関ヶ原の敗戦により秀元は毛利氏家臣及び幕府から見れば陪臣となる訳であるが、その結果として「正三位・前参議の公卿である陪臣」が誕生する前代未聞の事態が発生する。調べた限り陪臣の公卿は後にも先にも秀元一人である。陪臣とはいえ毛利家においては元継嗣かつ秀就を支える最有力一門であることに変わりはなく、幕府から見ても毛利家を代表する人物である秀元の存在は大きいものであった。その証拠に前述のように正室大善院死去後に継室浄明院を娶るが彼女は新たな天下人徳川家康の養女であり、陪臣に徳川将軍家の娘(養女)が嫁いだ礼は後にも先にも秀元のみである。また(確実なものでは)秀吉と家康両名の娘婿となったのもまた秀元のみである。

元継嗣かつ毛利一門筆頭にして将軍の娘婿、そして藩主の後見人にまでなった秀元の存在は当然藩主秀就からすれば目の上のたんこぶであり、この辺りが藩政の主導権争いを含め両者の不仲に繋がったことは想像に難くない。

<毛利秀元の身長・体格>
武将の身長や体格を推測する方法は甲冑の胴高が挙げられる。毛利秀元所用と伝わる厳島神社蔵の「銀小札白糸威丸胴具足」の胴高は36.9cmである。参考として伊達政宗の具足の胴高は38cmで、身長は遺骨から159.4cmと確定している。これに照らし合わせると毛利秀元の身長は157.5cm前後と推測出来る。
祖父である毛利元就は身長152cm程と小柄であった(諸説あり)と推測されるが、秀元の身長は同時代の平均と同程度であったと考えられる。
容貌や体格は肖像画を見る限り中肉中背で、武将としての威厳と高名な茶人でもあった秀元の教養ある高貴な姿をよく伝えている。

・側室本光院(長沼右衛門娘、長沼カヤ)について

次に、タイトルにも添えた毛利秀元側室・本光院について述べていきたい。
本光院は『近世防長諸家系図綜覧』によれば伊予松山藩主松平定行家臣・長沼左衛門の娘で、名は阿柏の方、または『公卿類別譜』(家譜・毛利家乗を参考)では名は長沼カヤとなっている。生年は『公卿類別譜』では元和元年(1515)生まれであり、秀元とは36歳差となり、秀元との間に寛永8年(1631年)6月22日に元知が誕生している。また没年は貞享2年4月14日(1685年5月16日)卒と記載されている。子息元知の生誕地が大坂であること、また『近世防長諸家系図綜覧』では没地も大坂であることから、本光院は普段大坂の毛利邸で生活していたと思われる。
側室かつ秀元とは36歳の歳の差ではあったが仲睦まじかったようで、たなか〜る先生。氏(@tanakaru99)の2021年2月4日のXの投稿では『寛永8年閏10月12日、「むすここん三郎となをつき候よし、千万千万めてたく、御うれしく候」(子息に権三郎[後の元知]と名をつけたとのこと。とてもとてもめでたくうれしく思います)』(原文ママ)と秀元から本光院に宛てた書状において息子元知の命名の喜びが綴られており、また本光院本人にも『「いつれもいつれもやかて上り候ハんまゝ、つきぬよろこひの事とも、てふてふ申うけたまハり候へく候」(いずれやがて大坂へ行くので、尽きない喜びの事を、何度も何度もお聞きしたいです)』(原文ママ)と喜ばしい心情を吐露するなど両者の交流・信頼が伺える。

以上のように毛利秀元及び側室本光院(長沼カヤ)に関して興味を持った点や気になる点を述べてきた。今後もこのような形で歴史などに関する投稿を出来ればと考えている。

参考文献
・光成準治『毛利輝元』(ミネルヴァ書房、2016年)
・『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社、1966年)
・橘生斎『西国太平記 毛利秀元記』(国史叢書、1915年)

参考サイト
・『公卿類別譜』
・たなか〜る先生。氏(@tanakaru99)

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